日本の台湾旅行記 6



 世界四大博物館の一つといわれる台湾の故宮博物院は、中国は清朝の紫禁城で展示されていた宝を、国民党が台湾に逃れる時に持ち出したものである。
 厳選されたとはいえ、その収蔵品点数は合計で六〇万八九八五件。老大国中国の歴史的遺物を集めた故宮博物院は、台湾屈指の観光スポットだった。
 その博物院は市中から離れた山の中にあり、タクシーかバスしか交通手段がないのだという。
 ホテルからタクシーで行っても一二〇元程度、日本円にして五〇〇円もかからないというので、日本は迷いなくタクシーを使うことにした。
「こちらへはいつ来られたのですか?」
「一昨夜の便だ。その、王んちの万博が気になって行こうと思ったらアイツはこっち来てるっていうし、それでふと直行便ができたから試乗しないと、って考えてたのを思い出して、それで来ただけだ!」
 一息でそう言い切ったイギリスは、きっとここに来るまで何度も理由を繰り返し己の中で並べ立てていたのだろう。
 頬杖をついてタクシーの窓外に視線を向け、顔を合わせようしないその姿に、日本は小さく微笑んだ。
 万博も直行便もただの口実であって目的ではないことくらい、日本には分かっていた。
 国交がない国、そして訪問すること自体、大国中国に喧嘩を売るような国に行くことが、彼のところでも問題視されなかったはずがない。それでもきっとイギリスは『台湾に行くのだ』とメールにさらりと書いたその一言だけで、日本に黙って予定を調べ、来てくれたはずなのだ。
 ただ会いたい、それだけの願いで。
 そしてイギリスが今、不機嫌そうなのは、日本が己の真意に気がついていることを察知して照れくさいからに違いない。
 そんな彼の不器用さが、愛おしかった。
「そうだったのですか」
「べ、別にお前がいるから来たわけじゃないんだからなッ! 俺は直行便と万博が気になっただけで……」
「ええ。でもお会いできて、本当に嬉しいです。直行便ができていたとは存じ上げず失礼しました」
 毎回お約束のツンデレな言い訳を笑顔で受けると、イギリスはほっとしたように力を抜き、口調も少しくだけたものとなった。
「この三月に就航したんだ。週に三便しか飛んでいないから少々不自由だが、香港から乗り継ぎよりはアクセスがいい。うちも台湾んとことはビジネスが増えてるから、必要に迫られてんだよな」
「そういえば台湾さんは最近頑張っておられますものね」
 ぽつりぽつりと会話を交わしているうちに、市中を抜けたタクシーは山に入り、やがて広大な建物が見えてきた。
 広大な白い石畳とその先にある大階段が正面に見え、それを登った先に博物院やそれに連なる建物群があるのだという。
 正面でつけたタクシーの料金を払おうともたついているうちに、さっさとイギリスが金を出し支払いを済ませてしまう。降りた後でせめて折半でと金を出しても、釣りがないと肩を竦めイギリスは受け取らず、日本は仕方なく自分のポケットに金を戻した。
「あの、ありがとうございます」
「いや、礼を言われる金額でもねぇよ。うちの地下鉄の最低料金以下だぞ」
「あー……あなたのところの地下鉄は、少々高すぎると思いますよ」
 以前ポンド高の時に行って地下鉄の初乗りが一〇〇〇円近くするという事実に目眩を起こしたことを思い出してそう呟けば、
「最近は円高だから、そこまでじゃないはずだ」
 とイギリスは苦笑した。
「円高だとにほ…菊んちにも行きにくいんだよな。お前が遊びに来いよ」
 日本、と言いかけ、咳払いで誤魔化したイギリスは、菊と言い直す。
「……そうですね、アーサーさんのご都合さえよろしければ、ぜひ」
 じんわりとこみあげる照れくささを笑みにすりかえて微笑みかける日本に、「俺んとこはいつでも大丈夫だ」と白皙の頬を仄かに紅潮させぶっきらぼうに呟く。
 イギリスの名前を呼ぶのも、彼に自分の名前を呼ばれるのも、いつだって最初の一言が少し気恥ずかしい。
 人としての名前は、世界会議や公式訪問ではけして使われることがなく、あくまでも国同士の私的な交流時にのみ使用されるものだ。基本的に非公式な仮名という位置づけになっている人名を面倒がってか厭うてか、国の中には人名を持とうとしない者さえおり、よほど親しくない限り、訊ねることも呼びかけることも憚れるものだった。
 比較的他国との交流がある日本は、色々な国の人としての名を知る機会に恵まれているが、ひょんなことからトルコの人名を口にした時、『ふーん、トルコの人名ってサディクっていうんだね、知らなかったよ』と驚いたアメリカに、逆に驚いたことがある。
 イタリアやドイツ、それにアメリカなどと名を呼び合うことは普通にできるのに、イギリスだけ妙に意識してしまうのは、名前のやりとりがある種親しさのバロメーターのようなものだからだろうか。
 そんなことを考えていた日本は、入場料を払おうと、ふとポケットに手をやり、手が止まった。
「え? あれ?」
「どうしたんだ?」
「ええと……ここに今一〇〇〇元ほど入れてたはずなんですけど……」
 昨日は結局両替した現金を使わず終いだったので、手元にあったのは一〇〇〇元札だけだ。タクシーで払おうとしたその札を、パンツの右ポケットに入れていた筈なのだが……。
「無くなってるのは何故なんでしょう?」
 いくらポケットを探っても、入れていた筈の紙幣がない。
「財布は?」
「海外では財布を持ってたら絶対に掏られるから持たないようにと、フェリシアーノ君とカルプシ君から言われているので持ち歩かないようにしてるんです。基本的に最小限使う分だけ、ポケットに入れて、他は鞄のチャックが閉まるポケットに入れてしまっておくことにしてるので」
「他の所に入れたということはないのか?」
「バッグの中にお金を入れるためには一度斜め掛けを外さないと入れられないんですよね」
 タクシーを降りて階段を上り建物に入るまでの間に、バッグを開けた覚えはない。
 イギリスの指示通り、他のポケットもひっくり返したり、手にしているガイド本の間に挟まっていないか逆さまにして振ってみるが、金は出てこなかった。
 これはつまり落としたのか、掏られたのか。
 よりによって治安の良い台湾で掏摸の被害に遭ったなどとは思いたくないので、きっと落としたのだと思うことにした日本は、両替のレートから日本円に変換してがっくりと肩を落とした。
「あああああ……勿体ないです。一〇〇〇元あったらCDどころかDVDが一枚買えました……」
 落としたにしてもこんなに人で溢れているこの場所では、きっと見つけることなど叶わないだろう。
「そう……だな…」
 なんとも言えない顔になったイギリスは、溜息を吐くと手を差し出した。
「とりあえずお前が持ってる金、全部出せ。俺が持っておいた方が安全な気がしてきた」
「ええと、お渡しするのは吝かではないのですが、しかしリスク分散という意味ではばらばらに持っておいた方が安心なのでは……?」
「俺はお前みたいに落としたり掏られたりするようなヘマはしねぇ! 背広の内ポケットに入れた金をとられるとしたら、襲いかかられて奪われる時くらいだから、それならなおさらお前が持ってたら危ないだろうが」
「ううう、否定できません……」
「それにずっと一緒ならどっちが持ってても不自由はないだろう。何か買いたきゃ俺に言えよ」
「そう……ですね」
 今日から三日、ずっとイギリスと一緒にいられるのか。
 その言葉で初めてそのことに気がつく。
 ずっと一緒、という言葉が嬉しくて思わず笑顔になった日本に、「なんだよ?」とイギリスは不審げな顔をする。
 それに「なんでもないです」と返し、日本はイギリスに金を預けた。



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