日本の台湾旅行記 5



 二日酔いの眼には、高層階の窓から溢れる晴れた朝の陽射しは暴力的なほど眩しい。
 結局日付が変るまで中国に付き合って酒を飲んだ日本は、そのまま彼の部屋に泊まるはめになっていた。
 朝起きた時には替えの服まで準備されていたあたり、中国はこうなることを計画していたのではと思えなくもないが、こんな街中の高級ホテルなら注文した服を揃えるくらいのサービスはしているのだろう、と無理矢理に自分を納得させることにした。我儘な中国の良いように振りまわされたと思うよりは、よほど精神衛生上良い。
 ルームサービスの貝柱の粥が美味しいだけに、食欲が全くないのが残念でならない。昨夜は酔い潰れるまで飲んでいた中国は元気そのものの健啖で、それになんとなく理不尽さを感じる日本だった。
「どしたあるか、日本?」
「あ、いえ。美味しいのですが、あまり食欲が……」
「飲み過ぎたあるか? 自分の酒量くらいわかってねーといけねーあるよ」
 酔っぱらった挙げ句、『泊まらないと離さない』と絡んだどの口がそれを言うかと思えど、日本は「はぁ」と曖昧に返事するだけに留めた。
「ところでそろそろ出る時間ではないのでしょうか?」
 遅々として進まない食を諦めレンゲを置いた日本は、一足先に食べ終えてのんびりお茶を飲んでいる中国に、出立を促した。
 同じホテルに泊まった台湾や香港と、中国が立つ際の見送りにと約束した時間が迫っていた。
「そういえばこの酒店に泊まれるよう、小湾に言っておいたある。このまま哥哥の部屋を使うよろし」
 ふと思い出したようにエレベーターの中で言い出す中国に、日本は昨日からの返事を繰返した。
「あー…… それはお心遣いだけ、ありがたくいただいておきます」
「日本は頑固すぎある。たまには哥哥の言うこともおとなしく聞くといいあるよ」
「ご心配はありがたいのですが、やはり宿泊となれば自分のホテルを使うのが筋で……」
 ポーンと軽い音と共にドアが開くと、昼間にもかかわらず重厚さを演出するため明度が低いロビーフロアをぐるりと見回す。香港も台湾もまだ来ていないようだ。
 少し早すぎただろうか。
 返事をしながらそう考える日本の視界に、不意にぱっと眩しい色彩が飛び込んだ。
 背の高い革張り椅子からすっと男が立ち上がる。
 欧風アンティークの雰囲気を演出するためにか仄暗いランプの光にも眩しい、鮮やかな金髪。
 見覚えのあるすらりとした長身に、仕立屋の名前までも言えるくらい馴染みのある落ち着いたストライプのスーツ。
 
(え、まさか……?)
 
 振り向いた男の顔はそのまさかで思い浮かべていた彼だった。
 その名はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国、通称をイギリス。
 日本が見間違えるはずのない無二の存在ではあるが、しかしこんな極東の島で会うはずのないその姿に、日本の思考は停止した。
「よう、久しぶ、げッ、中国……! な、なんでお前、まだ居んだよ」
 少し得意げに機嫌良く声をかけたイギリスは、日本の後ろからエレベーターを降りた中国の姿に声をかけてから気がついたのか、顔を引き攣らせる。

 ――これはマズイだろう!!

 停止した思考の再開を理性が拒否する日本と、狼狽えた顔のイギリス。
 その二人を見比べた中国の顔は無表情からやがてゆっくりと笑みに変わる。ただし眼つきは笑みとは反比例の感情、どころか殺気すら伝えていた。
「菊……これはどういうことあるか。なんでこのアヘン野郎がここにいるあるよ?!」
「い、いえ、私に言われましてもなにがなんだか……」
 問い詰める中国にぶんぶんと首を振る。
 誓って、本当に誓って本気で、イギリスがここに居るわけを日本は知らない。
 むしろなぜここに居るのか知りたいのは日本の方だ。
 青くなって首を振るその姿に埒があかないと舌打ちした中国は、きっとイギリスを睨み上げた。
「なにしに来たアヘン。オメエこそなんでここに居るあるアヘン」
「アヘンアヘン煩えよ! 俺はだなぁ……その、うちとの直行便ができたから試しに乗ってみただけだ」
「直行便〜? それは二ヶ月も前のことあるアヘン。じゃあ、乗って満足したならもう帰るある。我も今から空港に行くから特別に五〇〇〇元で乗せてやるアヘン」
「ざけんな! 俺の便は明後日だ! お前こそさっさと帰りやがれ」
「そんなものキャンセルすればいいアヘン! 香港からならいくらでも帰る便あるね!」
「んなことお前に指図される謂われはねぇんだよ!」
「ええと、ここは一応公共の場ですから……」
 戦闘開始のゴングを響かせ舌戦を始めた元ヤン海賊と中華思想全開の皇帝を止めようとするが、公共のマナーを訴える日本の言葉など当然のことながら無視される。
「ああ、どうしても貧乏で、貧乏で、貧乏すぎて、旅費払えないなら、我が特別に立て替えておいてやるアヘン。利子は金でなくてもいいあるね。お前んとこにある陶磁器で我慢してやるある。ていうか、うちから盗んだ天啓と唐三彩、返せあるアヘン」
「盗んだって人聞きの悪い言い方すんな! 天啓も唐三彩もちゃんと金出して買ったもんだ、バカァ!」
「大体我に黙って我の妹の家にくるとは、良い度胸あるな。うちの上司と話ついてるあるか? なんなら今から聞いてみてもいいあるよ」
 国際問題にしてやると携帯電話を取りだして冷たい笑みを刷く中国の姿に、
「ふーん……そんなこと言っていいのかよ」
 と動じることなくイギリスはにやりと笑った。
「今お前んとこでやってる万博、俺も随分協力させてもらったはずだけどな。お前んちのマスコミ事情には興味ないが、こっちは当事者だから色んな情報入ってんだぜ」
 現在中国が国の威信をかけて開催している万博でのトラブルを暗に指し、自国館の閉鎖もちらつかせてイギリスは脅しをかける。万博の参加館閉鎖など前代未聞で、ホスト国の面子に関わる事態だ。
「忙しいはずのお前がこんなところで優雅にバカンスしてるんだから、よもや俺の休日を邪魔だてできる筋合いじゃないよな」
 言葉を失しぎりぎりと臍を噛む中国に、ふふんとせせら笑った。
 
(イギリスさん、それでは丸っきり悪役そのままです……)
 
 なまじ端正で高貴な顔立ちをしているだけに、底意地の悪い笑みを浮かべればその効果は半端ない。
 形勢を制した尊大なイギリスの態度に、日本は内心頭を抱える。
 どうにかこの場を納めようと口を開きかけたがそれに先んじて、背後から声がかかった。
「あ、アーサーじゃーん。来るの早すぎみたいな?」
「小香……おめぇがこいつを呼んだあるか!」
「呼んでないけど勝手に来た的な? 予定聞かれたから答えただけってゆーかー」
 射殺しそうな中国の苛烈な視線を意に介した風もなく、香港は平然と答える。
「よけいなことを言うでねーある。有害この上ない虫を呼び寄せてどうするあるか」
「害虫ってふざけんな、このチャイナ野郎!」
「ノーノー、俺が呼んだんじゃないしー」
「ええと、本当にもうそろそろ時間が……」
「老師、もう出租車(タクシー)きましたよー。早くしないと行っちゃいますよ」
 もういい加減周囲の眼が痛く、居たたまれなくなった日本が切り出せば、やれやれと言いたげな顔で台湾が加勢してくれた。
「しょうがねぇあるな。世話になったある、小湾。今度はお前が遊びに来るよろし。小香……おめぇとはまた改めて話をするあるよ」
「えーぶっちゃけ面倒な感じ? てゆうか俺も万博あるし、端午節の粽作るのマストだし、説教聞いてる暇なんてない的な?」
「粽の準備ならうち来てやるよろし」
 やる気なさそうにえーと不平を言う香港を無視した中国は、くるりと日本に向き直った。
「菊ー! たった一日しか一緒に居られなくて残念ある! 無念ある! それにこんな悪党害虫腐れ阿片野郎がお前の傍にいるなんて、哥哥は心配あるよ、心配あるよ、心配あるよ! なんならこのまま一緒に哥哥の家に来ればいいある、むしろそうするある」
「え、いや……」
 がしりと抱きしめられ眼を白黒させていると、後ろから腕を掴まれ、強い力で引き離された。
「ざけんな! さっさと離れろ!」
「老師、菊さんはうちに遊びに来てくれたんですからね! まだ一緒にショッピングだってしてないし、漫画もアニメも一緒に見てないし、ファッションの話だってしてないんですよ。それに老師のせいで昨日はゲームもできなかったでしょ。いくら老師でもこれ以上、邪魔したら怒りますよー」
 キッと睨み上げた台湾に、チッと小さく舌打ちをした中国は、
「仕方ねぇあるな」
 と渋々諦めた顔を見せた。
「じゃあ我は帰るある。菊も今度はうちに遊びに来るあるよ。再見ある」
 日本には笑顔を向け、最後にギッとイギリスを睨んだ中国は、肩を聳やかして帰って行った。
「ったく、どこまでも感じ悪いヤツだ」
「ええと……」
 振り仰いで見上げると、至近の距離に翠の瞳がある。それに少し朱くなりながら日本は努めて冷静に告げた。
「手を放していただけますか? 痛いです……」
 無造作に掴まれている腕も、背中に当たる広い胸の感覚も、イギリスの香水が仄かに鼻腔をくすぐる距離も、何もかもが気恥ずかしい。
「わ、わりぃ! わ、わ、わざとじゃないからな! お前が王の野郎に捕まって嫌そうにみえたから助けてやっただけだからな!」
「ええ、ありがとうございます」
 微かに赤くなっているイギリスと日本、そしてそれを無表情ながらも面白そうに眺める香港がソファーに場を移すと、ほどなくして中国を外で見送っていた台湾が帰って来た。
 改めてイギリスと挨拶を交わした台湾は、「それで」と日本に尋ねた。
「今日はどこへ行きたいですか?」
「そうですね……一番行きたいのは故宮博物院ですが、それよりも買い物や漫画やアニメやゲームはいいんですか?」
 くすりと笑って揶揄すると、少し頬を脹らませた台湾は
「お客さまの希望が優先ですよー!」
 と胸を張る。
「あーだったら延び延びになってるこの間の賭の賞品買いに行くの、先に行って欲しい的な?」
「なんで香の買い物に行かなきゃならないのよ!」
「だってオレも客じゃね?」
「それはそうだけど今からじゃなくていいでしょ。今日は故宮を菊さんに案内する日だもん」
「えーでも俺は明日帰るし。ぶっちゃけ今日しかない的な感じ?」
「そんなの……!」と言いかけた台湾に、イギリスが口を挟んだ。
「……故宮ってつまりミュージアムだろ。俺も見てみたいからこいつと一緒に行ってくる。それで夕方お前らとどこかで待ち合わせすれば良いんじゃないのか」
「……菊さんはそれでいいですか?」
 不本意そうな台湾は、それでもホスト国の意識があるのだろう。
 日本の意向を伺う態度を示す。
 それを微笑ましく感じつつ、
「ええ、私は皆さんさえそれでよろしければ」
 と日本は答えた。
 彼女の意に反する返事をすることには申し訳なさを覚えるが、期待に満ちた視線で圧力をかけてくるイギリスの意向を無視するわけにはいかなかった。



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