日本の台湾旅行記 3



 台北の繁華街の一つである中山近くにあるホテルに着き、のんびりチェックインと荷解きを済ませると、ランチ営業時間もそろそろ終わろうかという時刻になっていた。
 間に合うだろうかと話しながら台湾おすすめの点心の店は行けば、まだ客の姿が多くあった。
「何が食べたいあるか、菊?」
「もちろん小籠包です!」
「他は何が良いあるか?」
 中国語のメニューを差し出す中国に、「読めませんよ」と眉を寄せる。中国語で挨拶をした中国へ店が渡したのは中国語メニューだけだ。
 昔は中国から渡来した漢文を使っていた時期もあったが、すっかり忘却の彼方。当時の中国語も変化した今となっては読めようはずもない。
 離れた席の日本人客は日本語メニューを見ているようだから、頼んで貰うべきかと考える日本に、
「だったら元?土?湯と炒豆苗でも頼むあるか?」
 と中国は決めていく。
「なんですか、それ?」
「鶏のスープと野菜の炒め物ある。美味しいあるよ。炒飯まで食べたら?餐食べられなくなるあるからね。それでいいあるか?」
「お願いします」
 すっと手を挙げて店員を呼び、オーダーしていく中国の横で、日本は改めて店内を見回した。
 タイル張りの床やシンプルな机椅子は、レストランというより食堂のような雰囲気だ。
 硝子張りの厨房の中では、割烹着に帽子マスク装着の料理人達が、流れ作業で瞬く間に点心を作っている。
 まるで手品のように鮮やかに小さな生地の固まりが薄く伸ばされ花蕾へと形を変えていく様子を、日本はわくわくして眺めた。どんな分野であれ熟練の職人達の技は日本の心を惹き付けてやまないものだ。
「食べたらどこか行きたい所、考えてるあるか?」
 運ばれてきた茶碗を片手に、訊ねる中国に熱中していた空間から引き戻され、日本は一つ瞬きをした。
 行きたい所。
 勿論、行きたい所は色々ある。なにしろこの旅が決まった時からずっと行く所を計画して考えていたのだ。だが日本が行きたい観光地は、どこも中国と行くにはそぐわない場所だ。
 少し考えた日本は、
「そうですね、マッサージに行きたいです」
 と答えた。台湾はマッサージの本場で、いたる所にマッサージ店がある。一度行ってみたいと思っていたし、中国と一緒に行くには無難な所だ。
「按摩あるか? だけど按摩は食べてすぐ行くのはよくねぇあるよ」
「マッサージといってもそんなに本格的なものではなくてですね。手始めに足つぼ程度から試してみたいと思っているのです」
「足療あるか…この辺りにあるかわかんねぇあるな」
「あ、それでしたら調べてきました」
 旅サイトや口コミでの下調べは抜かりない。いそいそとクリアファイルを取り出し、「マッサージならこの辺ですかね」と、プリントアウトしてきた店情報を差しだす。
「あ、あとガイドブックもありますよ」
「真是的! さすが菊、準備が良すぎあるね」
 やれやれと呆れ顔で首を振った中国が、ぱらぱらと紙をめくっているうちに、大きな蒸籠が運ばれてきた。
 蓋を開けると湯気とともに美味しそうな香りがふわっと広がり、真っ白な布巾の上に小籠包が並んでいる。
「とりあえず食べましょう、食べましょう! 冷めてしまいます」
「そうあるな」
「いただきます」と手を合わせてから早速レンゲと箸を使って一つとる。中の具が透けそうに薄い皮が破れないように慎重にレンゲに収めた。
 立てた歯越しにも熱さが伝わる小籠包の上部を囓ると、ふうふうと息を吹きかけて冷ましたスープを啜る。
 じんわりと甘く馥郁とした味が口の中に広がり、じたばた感動に踊り出したくなる手足を堪え、日本は内心で感涙した。
 熱いのを我慢して口に入れてはふはふと涙目になりながら、二つめは中国がしたように小籠包の上に赤酢に浸した千切り生姜を載せて食べる。少し締った味になり、こちらも甲乙つけがたい美味しさだ。
 思わず無言で食べるうちに、青菜の炒め物と鶏のスープも運ばれてきた。
 しっかり鳥の出汁が出ているスープも、大蒜風味の炒め物も美味しかったが、やはり小籠包が一番だ。
 できるだけ温かいうちに、と夢中で食べていると、
「本当に菊は幸せそうに食べるあるな」
 と感心したように中国が呟いた。
「だって幸せですから」
 こんなに美味しい物を食べて幸せにならないはずがあろうか、いやない。
 大真面目な顔で返せば、「ならいいある」と笑う。
「小籠包、哥哥の分も食べていいあるよ。その代りこの鶏の骨の部分もらうある」
「おお! ありがとうございます」
「青菜もしっかり食べるある」「味がたりなければ酢をちょと垂らすと美味しいあるよ」相変わらず細々と指導を入れる中国を、はいはいと受け流しながら小籠包を食べ終わる頃には、すっかり腹もくちくなり、
「もう食べられません…」
 と日本は残った料理を悲しげにみつめた。
「しょうがねぇあるな。二人で食べるには多すぎたあるよ」
「ううう……もったいないですが、しかしこんなに食べてしまって晩ご飯が心配です」
 朝食に機内食、それに飲茶とどう考えても食べ過ぎな感があるが、きっと夕食は台湾が気合いを入れて計画をしてくれているのだろう。となれば満腹だからと食べないわけにはいかないし、実際楽しみであるだけに、今更ながら腹の具合が心配になる。
「少し動けば大丈夫あるよ。なんだったら按摩やめて、どっか観光に行って歩くのもいいあるが、どうするあるか?」
 中国の言葉に日本は首を振った。
「台湾さんのおうちといえば、食べ物とマッサージだそうじゃないですか! それに説明には日本語OKって書いてあるんですけど、本当に通じるのか少々不安なんです。王さんと一緒なら安心なのでお付き合いいただきたいのですが」
「可以! 任せるある!」
 そういえば中国は断らないだろうと踏んで告げれば、案の定、中国はぱっと笑顔になった。
 頼られるのが好きな長男気質を逆手に取るのを、少々後ろめたく感じ、日本は曖昧な笑みを浮かべる。
 とはいえ言葉の上で若干不安があるのも事実だった。
 統治していた昔もそして今も、日本にはさっぱりここ台湾の言葉が分からない。
 勿論分からないのは台湾の言葉だけでなく、今の世界共通語である英語もなんとなく分かる程度の語学力しか島国日本にはないのだが、公式訪問では専用の通訳もつき、国同士であれば互いの母語で話をしていても相手の言っていることが分かるという便利な特性ゆえ不自由はない。
 しかし今回は非公式な訪問で、通常ならば案内してくれるはずの台湾もいない。彼女と同じ言葉を使う中国が傍にいてくれれば、通訳をしてくれるはずだという期待があった。
「じゃあ足療行って、その後ぷーらぷーらその辺歩くのもいいあるね!」
「ええ、案内お願いします」
 
(まぁ、頼っているのは事実ですから)
 
 そう自分に言い訳して、早速とばかりに席を立った中国の後に従いながら日本は罪悪感に蓋をした。
 
  
 
 結論としては、マッサージ屋で日本語は問題なく通じた。
 むしろ通じすぎて怖いほどだった。
 きょろきょろと店を探していると、女性オーナーと思しき人が店から出てきて、日本語で案内をしてくれたのだ。その流暢な受け答えは、日本をして一瞬彼女は日本人かと錯覚するほどだった。
 国である日本は、相手が自国の人間か否かは感覚で分かる。人の容をとっていても国同士が瞬時に互いを識別するように、自分に属している民はその流れる血や肌の色に関係なく間違えようがない。たとえて言うならば、白黒の群衆の中に天然色が混じっているようなものだ。
 だから彼女が日本人ではないことは分かっていたが、自国民ではない人間と日本語で会話することには軽く違和を感じた。
 
(イギリスさんやアメリカさんなら不思議とも思わないでしょうけど、うちの言葉はうちでしか使われないマイナーな言語ですからねぇ)
 
 いくら相手も商売だからといって、郷に入っては郷に従えの精神からすると嬉しいような申し訳ないようななんとも複雑な気分になる。
「うう、マッサージなんか久しぶりなので気持ちよすぎて力抜けます……」
 片側三車線以上ある広い道路は多くの車が行き交っている。特にタクシーや単車の数が多いのは大都市ならではだろう。単車のドライバーが皆揃ってカラフルなマスクをしているのが不思議な光景だ。夕刻になっても衰えない陽射しの強さに陰を求め、ふらふらと歩く日本に、
「ほら、しゃんとするあるよ」
 と中国は笑う。同じマッサージを受けたはずなのに、彼が平然としているのは慣れのせいかもしれない。
 とりあえず日系のデパートが中山の中心地にあるので、そこを目指せばいい、と案内をするその背に日本は訊ねた。
「さっきのご主人、なんで私が日本人で、王さんが中国人って分かったんでしょうね」
 日本には日本語で話しかけ、マッサージ中には日本の代表的な観光雑誌を差し出して来た女主人は、中国には開口から中国語で話しかけていた。
「人間でも見慣れてると、なんとなく分かるらしいあるよ」
「王さんも自分の国の民は分かりますか?」
「そうあるなぁ……うちはあちこち散らばってるあるからな。籍は違っても心は民もいるし難しいあるな」
 少し遠くを眺めるような眼差しに、中国とこの国が抱えている問題を思い出す。
 この台湾の大多数を占めるのは、終戦時に大陸から渡ってきた中国系移民だ。
 台湾の正式名称は中華民国。
 どこまでも中国と近しい国号を名乗り、正統な中国を主張する彼らは、隣を歩く中国の眼にどのように映っているのだろう。
 片や独立派との問題も抱え、ほんの十年くらい前には中国自身がミサイルを向けた近くて遠い国。
 広い道路に溢れる車両や行き交う人々の喧噪の中、黙り込む日本に気づいたのか「どしたあるか?」と、中国が訊ねる。
「ああ、いえ。……ちょっとばかり暑くてぼんやりしてしまいました」
「気持ち悪いあるか? 茶店に入って休むあるか? それとも酒店に帰るあるか?」
「デパートの中に入れば涼しいでしょうから、そこまで心配頂かなくても大丈夫ですよ」
 もう見えている自国のデパートのロゴ看板を指させば、「無理するでねぇある」と心配そうな顔を隠さない。
 少しぼんやりしていただけなのに、大げさなことだ。しかし今日の中国は、いつもにまして過保護とも過干渉とも言える発言があることに日本はふと気がつく。
 それはここが台湾という地だからこそなのか、そんなことを考え歩いているうちに電子音が鳴った。携帯電話に出て、短い会話で居場所を告げた中国に、
「台湾さんですか?」
 と訊ねた。
「小香ある。一緒に来てるあるよ」
「おや、香君がご一緒なのですか」
「こっちに来る言ってたあるが、どこにいるか言わなかったあるな」
 きょろきょろ探す中国に、日本も視線を彷徨わせる。渋谷並に人で溢れる狭い歩道には、探す顔は見つからない。
 だがデパートへの横断歩道にさしかかった所で、「ちーっす」と横から声がかかった。
 林檎マークのパソコンショップから出てきたのは、香港だった。
「菊さん、久しぶり〜ッス」
「え? ああ、香君、これはお久しぶりです」
「やっぱここで張っといて良かったスね」
 中国に目礼する彼の手には、世界一有名な林檎ロゴの紙袋があった。新製品が大好きな彼のことだ、きっと何か入手したのだろう。
「我たちは今から買い物ある。小香はどうするあるか?」
 と中国が訊ねれば、黒ジーンズのポケットに片手を突っ込んで階段を下りる香港は肩を竦める。
「一緒に行くッスよ。菊さんと買い物はまぁファーストプライオリティなんで」
 日本や中国よりも体格の良い香港は、すっと整った顔とその気怠げな雰囲気とが相俟って道歩く少女達の視線を攫っている。
 人目を集めるその様にも、「where?」と少しぶっきらぼうなその問いかけにも、青年と近しい関係だった存在を無意識のうちに連想し、知らず日本は笑顔を浮かべていた。



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