日本の台湾旅行記 2



 中国はそう言ったものの、乗降場で待っていたのは黒塗りのリムジンだった。
 その瞬間回れ右をして踵を返そうとした日本に、「何処行くあるかー」と中国は襟首を掴んだ。
「ちょっと、王さん! 今日はプライベートって言っておられたじゃありませんか!」
「そうある。心配しなくてもあれ、うちの上司の車じゃなくて普通の出租車(タクシー)あるよ。酒店(ホテル)で頼んだらあの車になっただけある」
 
(あんなもののどこが普通のタクシーですか! 乗り場に並んで上にランプつけた黄色い車両とは、まったくもって別物じゃないですか!)
 
 不信に満ちた眼差しをよそに、中国の姿を見つけ近づいてきた制服姿の運転手が何事かを話しかける。それに短く答え男にスーツケースを渡す中国に、日本は潜めた声で抗議した。
「あんな車に乗せられても、私、今両替した現金はそれほど多くないんですよ! もちろん持ち合わせがないとは言いませんが……」
「そんなもの哥哥が払うある。年上だから当然ある。菊はそんなこと心配しなくていいあるよ」
「しかし……」
「ほれ、さっさと乗るよろし」
 強引に車に押し込められ、滑り出した車に堪えようがなく溜息が漏れる。対照的に隣に座る中国はといえば、表面上は上機嫌そのものだ。
 その表情に全くこの人はいつもいつも自分勝手に……と腹立たしく思った日本であったが、ふと我が身を振り返り、頭を下げた。
「あの……中国さん、わざわざ迎えに来てくださってすみませんでした」
 別段こちらが頼んだわけではないし、むしろちょっぴり迷惑だったりもするが、溜息を吐くなど迎えに来てくれた相手に対して失礼な態度であった。
「ところで私、飛行機の便をお伝えしていなかったはずなのですが……」
「そんなもん日本の上司に直接聞いたあるよ」
「え……聞かれたんですか?」
「そ、ある。喜んで教えてくれたある」
 
(うわー……! きっとこの人のことだから直接電話でもかけて聞いたんでしょうね。さぞ上司もびっくりしたことでしょう)
 
 いや、びっくりしたというよりも、恐怖したに違いない。なんぞ手土産でも持って帰るべきですかね、と胃を痛くしたであろう偉い人に、日本は少々罪悪感を抱く。
「とりあえずまずは台湾の家行くあるよ。日本はもう昼食べたあるか?」
「一応機内食は食べたのですが、飲茶でしたらぜひ食べたいです! あ、その前にホテルに寄って頂けませんか」
 快諾する中国にホテル名を告げると、彼は眉をひそめた。
「なんで我と違う酒店あるか?」
「なぜと言われましても……、中国さんのホテルはどちらなのですか?」
「台北駅前にできた新しい酒店ある。台湾に言ったらとってくれたあるよ。日本も台湾に頼んで代えてもらうよろし」
「いえ、私は自分でとりましたので、今更変えるわけにはまいりません。それに一応うちのホテルですから他国さまのを使うわけにも……」
 押し問答しながら窓の外を見ると、高速道路沿いに広がるのはどこか日本とは違う緑だった。南国の、とまではいかないものの、生えている草木の種類は違う。
所々斜面にブルーシートがかけられているのは台風被害の名残だろうか。
 気候条件によっては肉眼で見ることができるほど至近距離にあるため、台湾と沖縄は気象も似ている。台風銀座と称される沖縄と同じく、台湾もまた台風のメッカだ。
 日本が統治していた時代は台風の被害の中でも水害が激しかったが、それは今でも変わらないことは時折聞こえくる台風被害のニュースからも知れた。さしずめこの土砂崩れの痕は去年の台風の名残か。
 そういえば治水に関しては、日本も頭を悩ませたものだ。
 度重なる被害に本国から技師を呼んで土木工事を重ね、上下水道を整備し、ダムを作り ……
 そんな日本の追想を破ったのは緑の中に威風堂々と聳える中国建築だった。

――圓山大飯店

 紅の壁面と橙の屋根が特徴的な台湾を代表するホテル。必ずインターネットのホテルサイトに掲載される有名なホテルの写真を日本も見ていたから、肉眼でも一目見てすぐにそれと知れた。
 窓から望む小高いその丘は、日本の忘れ得ぬ場所だった。
 街を見下ろすあの地に、かつては台湾神宮が置かれていたのだった。


 我 大日本帝国ハ 
 八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ 
 宇志波祁流此ノ台湾ノ地ニ 
 天照大神ノ御霊ヲ奉リ……

  
 もう忘れたと思っていた祝詞が木霊する。
 あの地に最後に訪れたのは、敗戦の影が忍び寄る終戦前年のこと。夏が過ぎても強い陽射しが濃い影を作り、木霊す虫の音に遠く戦闘機の音が不協和音を奏でていた。
 徐々に蓄積されていた疲労を白軍装の背を伝う汗への不快とすりかえた隣で、大垂髪に水干装束の少女が心配そうな眼差しを寄越していて――
 

 あれはもう昔の記憶。
 過ぎ去った遠い時のこと。
 耳鳴りのように木霊する記憶の残滓を振り払う。


「……飯店と、我の酒店の中にある餐館も美味しいという話あるよ。日本はどこが良いあるか?」
「そうですね、とりあえずお店は台湾さんの家に着いてから考えませんか?」
 うきうきと楽しげな中国の声に上の空で返し、時代の流れを突付ける建物から日本はそっと目を逸らせた。



 台湾の家は台北の中心地にあった。
 伝統的な四合院建築の門をくぐれば、敷地内は市中とは思えぬほどの緑で溢れている。
 煉瓦作りの建物の前にリムジンが停まると、待ち構えていたかのように少女が駆けだしてきた。
「老師、どこいってたんですかー? ちっとも来ないから酒店行ったのに……日本さん!」
 開口一番文句をつけ始めた少女は、中国の後から日本が車を降りると驚いた声を上げる。台湾だった。
「ずるいよ、老師! ぬけがけはダメですよぉ!」
「抜け駆けなんて、人聞きが悪いあるね。それよりもちゃんと挨拶するよろし」
 煩そうに肩を押し前に押し出す中国を、「もう、老師ったら」と睨んでみせた台湾は、はにかんだ笑顔を日本に向けた。
「遠路遙々、ようこそいらっしゃいました、日本さん。お会いできて嬉しいです」
 丁寧に日本式のお辞儀をしてみせる少女に、日本も笑顔を浮かべた。
「こちらこそお招きありがとうございます。この度はお世話になります」
 世界会議の場では何度か顔を合わせ、近年は比較的頻繁にメールや電話ではやりとりをしてはいたものの、実際に会って言葉を交わすのは久しぶりのことだった。
 長い黒髪に健康そうな笑顔、黒目がちな優しい眼はいつもと変わらない。
 繊細な刺繍とビーズに飾られたシャツにひらひらと広がるミニスカートは、普段の会議での民族服とロングスカートを合わせた服装とはまた違った可愛らしさだった。
 眼を細めて笑顔で見詰める日本に、少女は「はい」と手を差し出した。思わず眼を瞬かせるがすぐにその意図するところを悟り、「ちょっと待ってくださいね」とリムジンのトランクを開けてもらうと、スーツケースの外ポケットに入れていた雑誌を取り出す。
「きゃー! ありがとうございます、日本さん!」
「なにあるね?」
「うちで出してる少女向けのファッション誌です。台湾さんに頼まれていたんですよ」
「DhaMuRut+の春コレ写真がたくさん載ってるってネットで見て、すっごく欲しかったんです」
 ご丁寧にもURLつきのメールで買い物指令されていたその雑誌は、日本で発行される幾分マイナーなものだった。『こっちでは入らないんです! 輸入して、輸入して日本さん!』と電話口で泣きついた台湾はよほど楽しみにしていたのだろう。早速ページを捲り、歓声を上げる。
 その様子にやれやれと肩を竦めた中国は、
「それは後で見るよろし。それよりも今から日本と飲茶しにいくあるよ。小湾も一緒に行くあるか?」
 と尋ねた。
「えーいいですねぇ! でも私、これからお仕事なんです。うちの上司、最近仕事仕事って煩いんですよ。折角日本さん来てるのに〜!」
「仕事ならしょうがねぇあるな。しっかり働くよろし。ところで飲茶に良い店探してるあるよ」
「飲茶だったら日本さんの酒店の近くに良い店ありますよぉ。ホテル出てすぐ右を……」
 親しげに話をする様子を、この二人は意外に仲が良いんでしょうかね……と日本は幾分驚きとともに眺めた。
 これまでの世界会議では仲良く話をしている姿などみたことがなかったのだが、そういえば中国のホテルを台湾が手配したと言っていたから、それなりに交流があるのかもしれなかった。
「日本さん、お夕飯は一緒に食べましょうね」
「小湾、仕事終わったら手机(ケータイ)に連絡入れるよろし」
 話が終わったのだろうか、いってらっしゃいと手を振る台湾に、中国はそう言い置いて車に乗り込む。
「ええ。では台湾さん、お仕事頑張ってくださいね」
 また後で、と小さく手を振った日本も中国に続いた。



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