日本の台湾旅行記 1



 台湾は玄関の桃園国際空港に日本が降り立ったのは、五月もそろそろ終わろうかという初夏のことだった。
 この時期の台湾は雨期の大雨や台風の心配もさほどなく、夏場には殺人的になるという陽射しも幾分穏やかだ。また春詰みの台湾茶とはしりの果物も出回り始める観光にはうってつけの時期である。
 とはいえそんな理由は建前で、日本がこの時期を選んだのは夏冬オタク祭典原稿の狭間で、かつ美味しいマンゴーが食べられる時期だからだった。
 
(まだ少し早いとのことでしたが一応出回っているそうですね。ああ、楽しみです。山盛りになってるというマンゴーかき氷はぜひ食べねばですよ)
 
 台湾は食の天国。
 各種中華料理に台湾料理、マンゴー、パパイヤ、ライチ、ランプータンなどのフルーツも外せない。待ち受ける美食の予感に日本の胸は弾む。
 プライベートということで、いつもは受けることもない入国審査に並び、ターンテーブルを流れ出るスーツケースをのんびり待つのもこれまた一興。
 上司や警備に囲まれる仕事時には入国審査や自分で荷物を持つような面倒もないが、引き換えに全てにおいて堅苦しく、一挙手一投足を注視されている身なればこその一瞬たりとも気の抜けない負荷がかかる。
 そんな負担に比べれば、これからの観光に期待に胸を躍らせる観光客に埋没する気楽さは少々の手間とは引き替えにできないもので、日本は鼻唄でも歌いたくなるような開放的な気分で出国ゲートをくぐった。
 最近改装したのか、真新しく清潔なターミナルビルはどこか自国のデザインとも似ていて、異国に足を踏み入れる違和を感じさせない。
 飾られた緑にも心癒されるようで、思わず口許を綻ばせた日本に、聞き覚えのある、しかしここで聞こえるはずのない声がかかった。
 
「菊ー! こっちある!」
 
 ブンブンと大きく手を振っている見覚えのある顔 ――
 
「ちゅうご……いえ、王さん、何故こちらに?」
 ゲートの仕切り越しに「ここある、ここある」と呼んでいるのは、隣の大国中国だった。
 さすがにTPOをわきまえてか、いつもの民族服ではなく無難なシャツ姿だが、一つに束ねられた長めの黒髪と性差に迷う華やかな顔立ちは大声と相俟って周囲の耳目を集めている。周りを憚って呼び方を改め、慌てて駆け寄ると、中国は口を尖らせた。
「王さんだなんて、他人行儀ある。哥哥と呼ぶよろし」
「はぁ……。それよりも何故こちらに……」
 彼が日本に兄と呼ばせようとするのはいつもの事であり、それを曖昧にいなすのも慣れたものだ。そんなことよりも、とここに彼がいる理由を訊ねれば、心外とばかりに中国は口を尖らせた。
「何を言うあるー、菊が教えてくれたじゃねーあるか! 自分でメール書いておいて、もう忘れたあるか?」
「いえ、忘れてはおりませんが……」
 別に来てもらおうと思ってメールを出した訳ではないんですがね、という言葉を日本は飲み込んだ。
 彼が先だって中国に今回の訪台を伝えたのは、軍事的、政治的な面で中国と静かな緊張を孕んでいる地に、前宗主国として統治していた日本が黙って訪れるのは具合が悪いだろうとの政治的判断からであり、一緒に行くように誘ったわけではけしてない。
 なにしろ中国は台湾の領有を主張し、一国としての立場を認めていない。
 逆に台湾はといえば、正式名称を中華民国と自称していることからも伺えるように、大陸での政争に敗れ台湾に渡った政府が長らく独裁を敷いていた国だ。
 我こそが正統な中国であると大陸の主権を主張しながらも近年になってようやく民主化に至ったのだが、今でも中国派と台湾という独立した国だと宣言する独立派、それに現状維持派が入り乱れ、実際の国際法上での主権は空白地帯とも、アメリカの暫定占領地とも言われている、なかなかに物騒で政治的に混沌とした国なのである。(ついでに言えば中国が圧力をかけているため、国際社会に国として認められているかどうかも心許ない状態だ)
 今回の訪問にも上司からは『国の体現である日本が正式に国交のない台湾へ行くのは国際情勢上拙いのでは』とやんわり物言いがついたが、近年経済的にも民間レベルでも交流の深い彼の国からの直々のお誘いであることと、中国には日本から断りを入れるとの条件で渋々認められた経緯がある。
 ある意味お伺いを立てるような中国へのメールの返信には、生水に気をつけるようにだの、知らない人に付いていかないようにだの、いっそ煩いまでに細々と注意事項が書き連ねられた他は、いつもと変わりない文面ではあったのだが。
 
(やはり気を悪くされたのか……いえ、不機嫌な様子はないですから、ここはやはり訪問の真意を警戒されているのかもしれませんね)
 
 疲れてないか、遠かっただろう、とにこやかに笑っているはいるものの、この老獪な大国は裏腹な感情を笑顔に隠す術に長けている。
 むろん国であるからには、基本的にはどの国々にも肝要な場面で感情を面に出さない習性があるものだが、空気を読むことが特技の日本にとって、その思考はともかく彼らの感情を読むことは容易い。
 唯一その日本をして肚裏を読ませないのがこの中国なのだ。同じく笑顔の裏で何を考えているか分からないと評されるロシアなど、国益や利害や欲さえ読めれば彼の心の動きなど手に取るように推察できる。だが中国には国益や利害だけでは量れないどこか底知れぬものがあり、いまだに彼の行動指標は理解できないのであった。
 怒らせて文句をつけられるのは争いを好まず和を尊ぶ日本にとって忌避したいところではあるが、そもからして相手のスタンスが分からなければ対応にも迷う。
 肚の読めない相手の気持ちを忖度すること自体、分析と予測に基づく対人関係が習いの性になっている日本にとって、多大なストレスだ。
 
(ああ、憂鬱です。気が重いです。どうしてプライベートの旅行でこんなに疲れた気分にならなくてはならないのでしょう……)
 
 旅の初っぱなから何故こんな目に、と内心肩を落とす日本の手から中国はひょいとスーツケースの持ち手を奪った。
「荷物はコレだけあるか? 貸すあるよ」
「あ、いえいえ、自分で持ちますからご心配なく」
「いいから哥哥に任すよろし」
 こっちあるよ、とぐいぐいと手首を引っ張る中国の後を、慌てて追えば、彼は正面玄関へと向かっていく。
「ええと、どちらへ?」
「こっちに車待たせてるあるよ」
「あの、お気遣いありがたいのですが、私は今回プライベートで来ておりまして、できるだけ質素にバスを使って行こうかと……」
 バス乗り場は向こうですからここで、とスーツケースを取ろうとした日本に、中国はとんでもない、とばかりに大声を出した。
「不行! 一人で巴士(バス)に乗るなんて駄目あるよ! 危ないあるよ! 哥哥と一緒に行くよろし!」
「いえ、台湾さんのところのバスはとても安全で危険もないそうですから……」
「駄目ある駄目ある! 誰が乗ってるかわかんねー巴士なんか乗って、可愛い菊が誘拐でもされたらどうするある! そしたら哥哥がどれだけ心配するか、ちょっと考えたら分かるあるよ!」
 そうまくし立てる中国に、げんなりと脱力する。

(可愛いなんて気持ち悪い発言やめてください。こちとら成人男子です。ツインテールな美少女でも、眼鏡なドジっ娘でもないただの若作りなオタク男(推定二六〇〇歳)を捕まえて何言いくさすんですか。ネットの見過ぎで老眼とボケが進みましたか、そうですか。大体誘拐されるって意味が分かりません)
 
 反射的にそう言い返さなかったのは、我ながら天晴れな恥文化の賜だ。
 大の男が二人、正面玄関の入り口で言い争いをするのは、周囲の耳目を集める。中国語でまくし立てる中国の発言は、きっとこの場の半数には伝わっているはずだが(ああ、周囲の目が痛い)、わざわざ日本語で反論して周りにいる日本人にまで恥を晒す必要はないとの算段であった。
 しかしいつもならば場を読んで折れる日本にも、今日ばかりはそうするわけにはいかない理由がある。
「旅行客はバスで移動するのが一般的だそうですよ。それに王さんと違って私の風貌は平凡そのものですから、立場さえ明らかにしなければ心配されるようなことなど……」
「何言うあるか! 菊は我の弟、平凡なわけねーある! 可愛いの当たり前あるよ! ちゃんと胸張るよろし」
 なるほど。
 可愛いとの評価は、壮大な自尊心の副産からか。
 自分の弟だから、可愛くないはずがない。己に累する者だから当然可愛い。
 どこまでも中華思想、自分中心の考え方はさすが中国さんです。思わず遠い目になりながら、日本は率直に理由を告げることにした。
「えー……先も申しましたように、今回はプライベートで来たわけでありまして、立場を公にしたくないんです。しかしあなたと一緒だとそういうわけにはいかないでしょう。お気持ちは嬉しいのですが、今回は別行動にさせて頂きたいと存じます」
 国としての訪問と受け取られれば、台湾を一国として認める認めないのとややこしい問題が絡んでくるだけに、今回の旅行ばかりは一個人で動きたいのである。わざわざ一般のパスポートを使い、警護を振り切り出てきたのはなんのためだと思っているのだ。
 それに中国の出迎えともなれば、どうせ目つきの悪い邪魔が陰日向に同行するはずで、そんな連中に一挙手一投足監視される旅行など御免被る。むろん一人で動いたとしても何かしらの目があることくらい承知の上だが、意識するとしないとでは精神衛生上大違いだ。
 今からだってこんなに目立つ彼と一緒にいなければ、一般人に埋没できる自信がある。だからここで失礼します、と頭を下げた日本に、
「なんだそんなことあるか。我も今日はお休み取ったあるよ。だから心配することないある」
 と中国は笑う。その言葉に思わずきょろきょろと周囲を見回すが、確かにいつも中国が引き連れているあの独特な圧迫感のある護衛(なのか監視なのか分からないがあまり近づきたくない人種)はいないようだった。
「ええと、じゃあこの度は完全なプライベートの訪問なのですか?」
「そうある。菊と一緒にお休みとるってうちの上司にも言ってきたある。楽しんでくればいい、言ってたあるね」
 早く言ってください、そんなことは……と脱力しながら、「はぁそれではご一緒させて頂きます」と日本は中国の後に従った。



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