日本の台湾旅行記 15



 お土産を買って、台湾と合流して昼食をとり、チェックアウトを済ませれば、空港へ向かう時間はもう迫っていた。
「忘れ物は……ないですよね」
「お前、それホテルを出る時も言ってなかったか? それに今気づいてももう遅いだろう」
 空港でチェックインを済ませ、カフェでお茶を飲みながら思わず呟けば、イギリスは呆れたような顔をする。
「心配しなくても、忘れ物があれば私がちゃんとお届けしますよ!」
 くすくす笑う台湾に、「お願いしますね」と頭を下げる。
 旅から帰る空港での待ち時間が、一番落ち着かず、苦手な時間だ。
 己の属する地に帰らねば、という本能と、ずっとこのまま休暇をのんびり過ごしていたいという願い。それに何かやり残したことがあるのではないかという後ろ髪を引かれるような気持ち。それが綯い交ぜになって、そわそわしてしまう。
 だが、確かにイギリスの言うとおり、さほど時間は残されていないようだった。
 腕時計を確認した日本は、そろそろ出国手続きをしなくてはならないことに気がつく。
 その仕草で台湾も察したのだろう。
「また遊びにきてくださいね、菊さん。今回はHRSに乗れなかったですから、次は絶対に乗って欲しいです。うちには菊さんとこの蒸気機関車もあるんです。そっちも見に来て下さい。それからホトク一号のレプリカも作るから、一緒に乗りましょうね!」
 どうやら本格的に鉄オタ認識されてしまったようだ。苦笑する日本に、
「菊さんと一緒に茶藝館にも行きたいですし、マッサージもいいとこ知ってますし、小籠包が好きなら食べ比べもしないとダメです!」
 と彼女は言い募る。
「マンゴーの美味しい季節はまだまだこれからなんですよ。夜市も楽しいですし、九フンは『千と千尋』のモデルにもなってますし……」
 それから、それから、と指折り数えて色んなものを挙げていく少女の姿が、『帰っては嫌だ』と駄々をこねる子供の姿に重なって、日本ははっと胸をつかれた。
 あの頃、年に数度この地を訪れる日本の見送りに来ていた台湾は、こんな風に素直に思ったことを口にして甘えるような子供ではなかった。

『――御武運長久を御祈り致します』

 最後に会ったあの時も、水干装束のまま見送りに来てくれた彼女は、大日本帝国の若き婦人の鑑たれ、と厳しく教育された規範のままに恭しく頭を下げていた。
 けれどもその瞳は、今と同じ色を湛えていなかったか。

「台湾さん……」

『私はけして良い兄ではなかったのに、どうしてあなたは私に親愛を示してくれるのですか? 私が憎くないのですか? 恨んでいないのですか?』

 植民地として差別的な政治を布き、保護者であると言いながら一方的にその手を離して救いを差し延べず、そして過去を忘れたふりをしている自分を、本当に恨んでいないのか。
 優しい親愛に満ちた台湾の瞳からは、その問いに返るのは、耳に心地よい返事だと確信できる。
 そしてその問いすら彼女は望んでいないことも。
 ならば自分にとって都合の良い、罪悪感から楽になるためだけの質問はすべきではないだろう。
 言いかけた言葉を肚に納め、
「またぜひ遊びにお邪魔させて頂きますね。その時はあなたが好きな場所を案内して下さい」
 そっと頭を撫でると、台湾は花のように綺麗な笑顔で笑う。
「それから勿論遊びにも行かせて頂きますが、どうぞうちにもおいでくださいね。新作ゲームと雑誌を用意してお待ちしております」
「はいっ! 楽しみです」
「世話になった。うちにも遊びに来るといい。直行便もできたことだしな」
 同じように手を伸ばし、頭を撫でるイギリスの様子に、
「そうですね。きっとアルフレッドさんや王さんも押しかけてこられるでしょうが、そちらの方々のお相手はホストにお任せして、一緒にアフタヌーンティーと大英博物館の見学へまいりましょう」
 思わずそんな軽口を叩けば、「お前なんてこと言うんだ!」とイギリスは本気で嫌な顔をし、台湾は楽しそうな笑い声を上げた。


 名残を惜しみつつ、出国ゲートで台湾に別れを告げると、行きと同じく、セキュリティチェックと出国審査を受ける。
 そうそう出入国審査を受けることなどないので、興味津々というのが半分、なんぞ物言いでもついて国際問題になったらどうしましょうかね、という不安が半分で審査に臨んだ日本だったが、その予想は大きく裏切られた。
「日本の方ですか。台湾はいかがでしたか? 楽しかったですか? また遊びに来てくださいね!」
 パスポートを調べ、印を押しながら、にこにこと話しかける審査官に面食らいながら礼を述べる。手まで振って送ってくれる相手に、自分だけになのか? と思わず他を伺えば、大なり小なり似たようなやりとりをしているようだった。
 観光地ならばたまに厳つい顔の審査官が一言冗談を言って笑わせてくれることなどもあったが、しかしここまで友好的な出国審査は初めてだ。

(これは本格的にうちも負けていられませんね)

 無愛想とまではいかないが、鯱張った自国の審査官たちとせいぜい交わす会話と言えば「お願いします」「結構です」「ありがとうございます」の三言くらいだ。
 うかうかしていると本当にサービスナンバーワンの座を奪われます、と闘志を燃やす日本に、こちらも審査が終わったイギリスが声をかける。
「まだ時間大丈夫か? なんならラウンジでも入るか?」
「いえ、そこまでの時間はないです。走らなくても大丈夫と言う程度でして、せいぜい行きがけに免税店を冷やかす程度かと。アーサーさんは?」
「俺はまだ大丈夫だから送っていこう」
 連れだって歩くイギリスは、はぁぁと大きな溜息を吐いた。
「あー……帰りたくねぇ」
「旅行、楽しかったですものね」
「楽しかったのは勿論だが、この後が王んとこっていうのが更に憂鬱なんだよなぁ……」
 万博を口実に出てきたからには行かざるを得ないのだ、とぼやく。
「そうだ、お前も一緒に……」
「あ、それは遠慮させて頂きます。長く国を空けるわけにはまいりませんので」
 イギリスには悪いが、いらぬ寄り道などしたくない。
 大体あんなに仲の悪いイギリスと中国の板挟みなど、冗談でも勘弁してもらいたい。イギリスが同じく天敵と称すフランス相手なら、まだ傍観者としてそのやりとりを楽しむ余裕もあるが、中国相手の場合はこちらに火の粉がかかることは学習済み。
 君子危うきに近寄らずである。
 間髪入れぬ拒絶に、「うっ」と言葉に詰まったイギリスは、
「じゃ、じゃあ、さっさと切り上げてお前んち行くからな!」
 と宣言した。

(ああー…断るに決まっている誘いは、この前振りでしたか)

 なんだかんだ理由をつけ、勢いがないと「遊びに行っていいか」の一言も言えないツンぶりは、恋人同士になってから一層拍車がかかっている。
 くすくすと笑いながら、「お待ちしておりますよ」と応じれば、ほっとした顔になるのがなんとも微笑ましい。
 なまじ上背があり端正な顔をしているだけに、子供のように無防備な笑みには胸が高鳴る。
『ビバ、ギャップ萌! 萌られるような可愛い恋人万歳!』などとイギリスが聞いたら目を吊り上げて怒りそうなことを考えているうちに、目的地に辿り着いた。
 折しも飛行機は一般客の搭乗も開始したようで、ゲートに乗客の長い列ができはじめている。
 またすぐに会えるのだ、と分かっていても名残惜しいのは彼も一緒なのだろう。人の流れから離れ、邪魔にならない柱の傍で、顔を見合わせる。
「あの…今回はお会いできて嬉しかったです。ありがとうございました」
「俺も楽しかった。その……気をつけて帰れよ」
「アーサーさんもお気をつけて」
 離れがたい気持ちを抑え、「では」と歩き出そうとすれば、腕を掴んで引寄せられる。
「――布団は一組で良いからな」
 至近での囁きと共に、耳朶を甘噛みされ、その感触と言葉の意味とに、日本の顔は一瞬で朱に染まる。
「お前の妹の家だから遠慮してやったんだ。今回の分までまとめて抱くぞ。しっかり寝とけ」
「なっ……!」
 とんでもない宣言に言葉を失う日本に、にやりと笑い、イギリスは踵を返す。
 
(前言撤回! 可愛いなんてとんでもありません!)

 往来でなんということを言ってくれるのだ。
 日本の視線を確信しているかのように、後ろ姿のまま手を振り別れを告げるイギリスを睨みながら、わなわなと日本は拳を振るわせる。
 だが、すぐにその拳は力を失い、波のように押し寄せてきた感情に、わななく唇を手のひらで覆った。

 お前の妹の家、と。
 そう彼は言ってくれたのだ。

 それはあの日以来、口にすることを己に禁じ、そしてもう聞くことはないと思っていた言葉だった。
 ただその一言に、こんなにも目頭が熱くなり凪いだ優しい気持ちになるのはなぜだろうか。
 こぼれ落ちそうになる涙を強く瞑目することで堪え、日本は前を向いて歩き出す。
 空港のアナウンスは、搭乗の最終案内を告げていた。



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