日本の台湾旅行記 13



 ぼんやりと考え込んでいた日本は、「これでツアーは終了とします」という声に、我に返った。
 日本統治時代の部屋以降も、いくつも部屋を見て回った筈なのに、全く頭に入っていなかった。最後の方は、近年の総統達の紹介で、こちらの知識は仕事の一環として覚えているというのもあり、興味もわかなかったせいもある。
 まぁよいでしょう、と諦め、ボランティアの男性に案内の礼を述べると、「どちらからお見えですか?」と訊ねられた。
「東京です」
「そう。私は昔、練馬に住んでいました」
 その言葉に、日本は眼を瞬かせた。
 彼は日本の、自分に属する国民ではないはずだった。つけている名札も日本名ではなく、なによりも自国の民ならば、迷うことなく識別できる。
 だが違うとも言い切れない、なにか引力のようなものを、この老齢の男性には感じた。
「台湾の方ですよね?」
「はい。私は戦中、日本語の教育を受けて、日本の大学に進みました。だから日本語が話せるんですよ」
 なぜ日本語が話せるのか。
 台湾が日本の植民地であったことを知らない世代からの無邪気な問いを、何度も彼は受けているのだろう。彼はさらりと説明する。
「あの……」

――日本での生活はいかがでしたか

――嫌な目に遭われなかったでしょうか

――日本を、私を嫌いになりませんでしたか

 心に渦巻く言葉はあれど、どれも口にすることはできない。
 差別はないと謳われる国ではあるが、つい最近まで沖縄の人間に対して、激しい差別が存在していた。
 台湾からの留学生となればなおさらで、きっと彼も悔しい思いをたくさんしたはずだ。
 言葉に詰まった日本は、ふと気になっていたことを訊ねた。
「あの、ここの展示は台湾の方もお見えになるんですか?」
 日本語ツアーや、韓国語と思しきツアーの他にも、幾つも現地人と見られるグループのツアーがあり、皆真剣に聞き入っていたのだった。
「ええ、勿論です。台湾はやっと民主化した国で、国民党時代は台湾のことを学校で教えてはいけないことになっていました。国民党はこの国は中国だと主張していたので、習うのは中国の歴史と地理と決まっていたのです。戦後、国民党の教育を受けた人は、中国の一番長い川は長江だと知っていても、台湾で一番長い川が濁水渓ということさえ知りません。だからここにきて、自分の国がどんな国だったか知る人も多いのです」
 絶句する日本に、男性は続ける。
「台湾を訪れる観光客で一番多いのは日本人です。逆に日本への観光客で一番多いのは韓国人、その次が台湾人なのです。同じ中国語ということで、中国人と間違えられますし、日本では国の方針のせいか、台湾と中国を一緒にして、中国人観光客が多いとされているようですが、台湾人と中国人は全く違います。……台湾は初めてですか?」
「はい」
 頷くと、彼は笑みを浮かべた。
「あなたのような若い人が台湾に関心を持ってくれるのは、とても嬉しいことです。台湾にも日本に関心を持っている人がたくさんいます。またぜひ台湾に来て下さい」
 見た目通りの若い人ではないので申し訳ない、と思いながら、このようにして男性は日台の親善に努めているのだと思い当たる。
 あの当時、日本語で教育を受けていたということは、もうかなりの高齢と言って良い歳だろう。
 このガイドは全てボランティアで行われているのだという。
 自国の侵略された歴史を、その加害者であった国の言葉で、その国の人々に語る気持ちは日本には計り知れない。
 ましてや差別されたという意識も薄い幼少期ならまだしも、日本で大学へ行ったというのならば、その出自を隠しでもしない限り大なり小なり差別的な扱いを受け、嫌な気持ちになったはずだ。
 国籍や肌の色による謂われなき差別がどんなに屈辱的なものか、時にはそれにより憎しみに近い感情すら覚えるということを、日本もこの身で知っている。
 だが、彼の説明は、日本の功も罪もことさらに強調するのではなく、ただ歴史的事実を伝えなければならないという責任感に満ちたものだった。
 そして日本からの一旅行者である若者に笑顔を向けるのは、きっと個人的な感情の全てを乗り越えて、親善に務めてくれているからなのだろう。

――台湾と、日本のために

「……ありがとうございます」
 万感の思いで頭を下げ、差し出された手を握る。
 皺の多い乾いた手からは、やはり自国の民の持つ親和性は感じられない。
 だが、どこか馴染むその手は、親しみのある懐かしい感触だった。



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