日本の台湾旅行記 12



 日本が台湾を植民地にしたのは、中国相手の戦に勝利した一八九五年のことだった。その講和条約の中で台湾を譲り受けると決まったのだった。
『男無情女無義、鳥不語花不香化外之地――』
 男は人としての情が無く、女は不道徳極まりない。鳥は鳴かず、花は香らず。台湾はいかなる方法をもってしても、永久に教育不可能な無価値辺境の地である。
 言外に、お前には手に余ると憎々しげに吐き捨てた負け惜しみのような中国の言葉に、『いいえ、私が必ずどこへ出しても恥ずかしくない国にしてお目にかけましょう』と返したのは、売り言葉に買い言葉だったのだろう。
 すぐにその教育に着手すべく、台湾の地へと向かったが、そこで初めて対面した台湾という国は、細くて小さな幼女だった。
 中国の辺境省であった台湾が、日本に反抗するため、そのためだけにこの地で初めて樹立した国「台湾民主国」。
 数多の原住民部族が割拠し、統一された国家という意識が存在しない地に、国という意識を目覚めさせたのが日本というのはある意味奇妙な事態であった、と今となっては思う。
 だがその時点で日本の胸を占めていたのは、生まれたばかりのこの国を庇護し導くのは己である、という強烈な自負心だった。

『今日からあなたの面倒をみることになりました、日本です。私を兄だと思い早く大きくなり、何処に出ても恥ずかしくない国となってください』

 その言葉とともに差し出した手を、幼子は何も言わず噛みつき。驚きで振り払った日本が手袋を外すと、くっきりと刻まれた歯形からは血が滲んでいた。

『何をするんですか!』

 きつい声に返ったのは憎悪に満ちた視線だった。
 彼女が日本に抵抗するためだけに生み出された国であればそれも当然のことではあったが、正直ここまで反抗的な態度を日本は予想していなかった。
 果たして国の体現である台湾のその態度に呼応するように、派遣した軍の台湾静定は予想以上に困難を極めた。
 台湾平定の宣言を出すまでの五ヶ月で、日本側は皇族も含む戦死傷者七百名、台湾側死者数は一万人以上。その後も数年間、抵抗運動は続き、さらに一万四千人の血が流れた。
 結局、この地が静穏を取り戻したのは、一九〇二年。ちょうどイギリスとの同盟が結ばれた年だ。
 台湾は、けして中国が言うように鳥が鳴かず、花は香らない暗黒の地ではなく、むしろその昔欧州が評した『イリャ・フォルモサ』という名に相応しい、風光明媚な土地だった。
 富士山よりも高い、新しい日本最高峰という意味で新高山と名付けた玉山には雪も降り、亜熱帯と熱帯に属する土地ならではの、日本では目にすることのできない自然も楽しむことができた。
 そして人々の気質も、部族によって幾分の違いはあれど、ひとたび平定すれば基本的に穏和で心優しい民だった。
 だが美しいこの地は、様々な問題も抱えていた。
 汚染された飲み水に、風土病をはじめとする病魔も潜んでおり、台湾平定の為の出兵では約二万人の兵が病に臥せった。
 また、数えるのも困難なほど数多の部族に分かれた原住民の言語は、ほぼその部族内でしか通用しない独自のもので、共通語という概念が存在せず、それは幼い台湾の話す言葉にも影響及ぼした。口を開くたびに彼女の言葉は異なる言語を話し、日本を困惑させた。
 これまで日本は相手の言語や文法など、気にしたことはなかった。
 だが国同士の利で、意思の疎通自体に問題はないとはいえ、会話するたびに異なるイントネーションで、中には言葉というよりも鳥の囀りのようなメロディーで返されると気に障ってくる。

『今日から日本語、うちの言葉を話しなさい』

 嫌がる台湾に無理矢理日本語を教えこみ、日本語を共通言語とした。
 また阿片も最大の問題だった。
 中国を蝕んでいた麻薬は台湾にも浸透し、日本の手に渡った時、住民の約二割は麻薬の中毒患者だった。阿片の禁止令が反抗運動の火種とならないように段階を踏んで禁止とし、同時に身嗜みや整理整頓から始まる衛生観念、時間遵守や遵法精神を叩き込んだ。
 鉄道、水道、電気、道路というインフラの整備……


「――このように日本統治地代には様々な社会基盤が形作られたわけです」
 よく通る案内ボランティアの声に、日本は追想から我に返った。
 背広姿の老齢の男性は、流暢な日本語で、次のパネルの説明に移っている。二十人近い日本人観光客は、静かに歴代の総督一覧を記したそれに注目していた。
 今、日本がいる総統府、旧台湾総督府の見学を薦めたのは、他ならぬ台湾だった。

『平日の午前中は日本語のツアーもあって、見学できるんですよ。日本さんの懐かしいものもたくさん展示してあるから、よかったら見てきてくださいねー!』

 台湾の勧めに従い見学に訪れたのだが、確かに台湾という国の歴史を順追って説明していくパネルは、日本の統治時代にも多くの数を費やし、確かに懐かしい品もいくつも飾ってある。
 歴代の総督の写真と来歴功績、台湾総督の印のレプリカに、実際に使用されていた食器類。
「台湾の発展に尽力した総督の一人が、明石元二郎です。この人は、台湾電力を作った総督でした。日月潭に水力発電所を作るために鉄道を敷き、また日本人と台湾人が均等に教育を受けられるように法を改正した総督でもあります。この人は遺言で台湾に埋葬するよう言い残しており、今も台湾で眠っておられます」
 淀みなく説明を続ける説明員は、歴代総督の最後に加えられたパネルの前で立ち止まった。
「八田與一という人を知っている人はおられますか? そう……日本では知られていないようですが、この人は台湾農業の父と呼ばれ、台湾でこの人を知らない人はいません」
 彼と同じ日本人が、その存在を知らないことに慣れているのだろう。落胆する風もなく男性の説明は続いていく。
「彼は烏山頭ダムを作り、灌漑施設を整備した土木技師です。過酷な工事で、死者もたくさん出ましたが、台湾人も日本人も区別せずその死を悼み、台湾の為に力を尽くしてくれた人でした。そのため、地元の人からとても愛され、日本が台湾から去った後に八田ご夫妻の墓が現地に建てられ、今でも毎年慰霊祭が行われています。またこの方の功績を讃えるため、銅像も作ったのですが、戦争末期の金属類供出の時に隠して、戦後も民主化して安全になるまでこっそり保管していました。蒋介石政権で日本人の銅像は全部壊され、こっそり隠し持つのは大変危険なことでしたが、それくらい台湾の人に愛された人です。最近記念館も建てられたので、ぜひ行ってみて下さい」
 八田與一という人間を、日本もはっきり覚えてはいない。ただ嘉南平野開発計画と銘打たれた灌漑計画は覚えている。
 概算請求予算は総額四二〇〇万円。
 これは当時の台湾総督府の年間予算の三分の一以上に及ぶ規模の金額で、最初にその話を聞いた時は頭を抱えたのを覚えている。結局は全て予算で賄うのは不可能ということで、地元の負担も加えて工事が進められたはずだった。
「こちらにあるのが、この総統府の写真ですね。上から見るとこの建物は日という形になっています。二つの中庭は、今は庭ですが、当時は馬や自転車や車の駐車場として、使われていました。正面からみて右が一般用、左は総督や皇族など偉い人専用でした」
 写真とともに総統府の図面や、建設時の図面や書類なども展示されている。その中には予算を示す書類もある。
 この総督府を建てるため、明治四五年当時で一五〇万円の予算が組まれたが、最終的には二八〇万円の額が費やされた。
 当時の百円は今の物価と単純比較すれば三〇万円、今とは物価感覚が違う当時の庶民感覚からすれば、百万とも二百万とも言える。当時の一五〇万とは計算するのも空恐ろしいほどの金額だった。
 とにもかくにもあまりにも台湾に金がかかるため、一億元でフランスに売却すべきだという台湾売却論が議会で取り沙汰されたほどだ。
 あの頃、自分の力には不相応なほど、彼女の世話に力を注いだのは、中国に対する意地は勿論だが、自分は宗主国として立派に振る舞えると誇示し、それによって一流国として世界に認められねばならないという焦りや矜持からのものだったかもしれない。
 正直、当初は反抗ばかり繰り返す台湾を可愛いなどとは思えず、彼女が長じてからも笑顔一つ向けた覚えがない。
 イギリスを始めとする諸国に美しい妹として紹介するのは誇らしくはあったが、内心では彼女が何か粗相をしでかさないかという不安と恐れで一杯だった。
「この建物は、戦時中に空襲に遭い中央棟や正面玄関が被害を受け、三日間も火が燃え続けました。生き埋めになって亡くなった人もいます。同じ総統府の建物としては朝鮮総督府があります。あちらは取り壊されてしまいましたが、日本人が作ったから、といって壊したりするようなことはしません。修理をして今も大事に使っています」
 感心したように話を聞く聴衆に、日本は頬を歪めた。
 人というものは、己の耳に優しい言葉、都合の良い事象だけを覚えるものだ。
 彼らのうち何人がさらりと説明された、台湾への差別的支配のことを記憶するのだろうか。 
 確かに日本はこの台湾に、巨額ともいえる投資をし、社会基盤を築いた。
 だが、それは己の体面や誇りのためだった。
 灌漑工事にしても結果的には後世の台湾のためにはなったのかもしれないが、あの当時、台湾は日本への農作物供給地という位置づけで、生産高が増えた結果潤うのは、宗主国である日本だった。

 自分は。
 人に在らざる、記憶の優しい忘却という恩恵を受けることのできない国なれば。

 己がこの国に何を強いたか、はっきりと覚えている。
 日本の官吏の横暴と不正に蜂起した原住民たちを、爆撃機や毒ガスまで使って鎮圧した霧社事件。
 統治の基本は日本人を頂点とし、それ以下を二等臣民、土人と見下す差別意識を利用した。
 台湾人独自の会社設立は禁止し、教育のための学校にも差をつけた。そして台湾固有言語の使用を抑圧、禁止し、家庭内でも日本語を義務づけ、言葉すら奪った。
 この総督府でもそうだ。台湾人の職員は多く採用されたが、高位高官への昇進の機会は閉ざされ、高等官は三〇人以下にすぎなかったように記憶している。

 人の記憶というものは薄れゆくものだ。
 そして自分の都合のよいようにそれは美化され、改竄されていくことを知っている。
 
 あの戦争の時も、戦前、戦中には、国のためと錦の御旗を掲げていた者が戦後にはあれは本意ではなかったと釈明し、逆に馬鹿馬鹿しい戦争だと揶揄していたものが、あの頃は国のために命すらかけたのだと真顔で言い募っていた。
 どちらも本気でそう信じ込むそれら人間達を、日本は醒めた目で見詰めていたのだ。

 人の記憶とは脆いものだ。
 けれども国の記憶は、国としての記憶は消えることはない。
 それは彼女も同じであろう、ならばなぜ――



Back + Home + next