日本のスペイン旅行記


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 しかしそれにしてもこちらの女性は積極的だ。服は触っているものの、明らかにスペインだけをみて楽しげに話しかけている店員と、それを上手に相手しているスペインのやりとりを(半分しか理解できないが)感心しながら聞いていると、話が一段落したのか、
「ほな、菊ちゃん、これ着てみ」
 とスペインが服を指さした。
 派手な赤いサロペットはズボンの形。中の長袖はピンクのストライプに紺の水玉、赤の無地が襞のように重なった派手なもので一瞬怯む。だが触ってみるとガーゼコットンの素材で意外に気持ちがよい。
 さすが幼児服、股下が面倒なスナップになっているのに閉口しながらも着替えれば、スペインは大げさな程に褒めてくれた。
 色は派手だが、とりあえずは男物に見えるから、日本にとっても許容範囲だ。
「とりあえずはそれ着て、あとはまた買えばええね」
 ちらっと見た会計も思ったより安く、これならいいか、と思った日本は「そうですね」と答えた。
「可愛いお子さんですね、ってさっきのお姉ちゃん、えらい菊ちゃんのこと褒めとったんやで」
「はぁ、それは恐縮です」
 店を出て、にこにこしながらそう言うスペインに、将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、ってヤツですかね、と日本は苦笑した。
 娘を溺愛する父親に対してならば有効だろうが、自分では意味がない。百歩譲ってロマーノならありかもしれないが。
 買い物も一段落すると、十一時を過ぎている。
「プラド行く前に、ボカディージョ食べへん? 親分お腹空いたわ〜」
「ボカディージョって何ですか?」
「バゲットのサンドイッチや。あいだにハモン(生ハム)やったり、トルティージャ(ポテトのオムレツ)やらチーズやら挟むんや。マドリーの名物はカラマレス(イカのリングフライ)挟むヤツやね」
 果たしてカラマリとバゲットは食い合わせとしてどうなのか、という疑問が浮かぶが、名物というからに試してみたい気がする。
「それ、食べたいです」
「ほな、プラドに行く途中の店に寄ろな」
 買ってもらった服や靴の袋を下げて、片手で日本を抱えるスペインに申し訳なく、袋を持とうかと申し出るが、笑っていなされる。
「子供はそんなこと気にせんでええんよ」
「いえ、格好は子供ですが、私中身は大人ですから」
「でも格好は子供やん」
 あはははは、と声を立てて笑うスペインに、複雑な気持ちになる。彼の中では、今の自分はすっかり子供の認識なのだろう。
 自分の意識は大人のままだからいつものように扱って欲しいんですけどねぇ、と思いつつ、それは我儘というものだろうな、とも頭の端で諦めもする。
 とかく人というものは見た目に判断されるものだし、昨日の己の醜態では、スペインの保護者意識はいやというほど刺激されたに違いない。それが今更大人ですからと主張しても一笑に伏されるというものだろう。
 大人の時にはかけない類の迷惑を掛けるのは事実だし、ここは黙って従うしかないのだろうな、と日本は諦めた。
 しかしまさか己が身で子供にされてしまった漫画の主人公の苦労を体感してしまうとは。
 人生とは分からぬものです、と人生にまで思いを馳せているうちに、スペインは店に入っていた。
「?Hola(よお)! ?Cuanto tiempo(久しぶりじゃねえか) !」
 馴染の店なのか、スペインの姿を見て恰幅の良い親爺が親しげに声を上げる。
「よお! 元気そうやん。最近めっちゃこき使われてなかなか足運ばれへんでなぁ、堪忍なぁ」
 軽口を叩くスペインは、何事か訊ねた男に、
「せや。うちの娘。この子がおっさんのカラマレスのボカディージョ食べたい言うねん。作ったって」
 と笑う。スペインの立場を知っているのか、じろりと検分するような視線を向けられ、その眼光の鋭さに思わず日本は首を竦めた。
 さほどせぬうちに供されたボカディージョは、半分に割ったバゲットの間に山ほどのカラマリを詰めたシンプルなサンドだ。
 わざわざハイスツールを出してくれるがそれでも身長が足りず、膝立ちになりカウンターに縋り付く形で食べようとするが、大きすぎて口に入らない。
「こらこら、そら無理や」
 おっちゃん、ナイフ貸して〜、と声を掛けたスペインは、小さく切り分けてくれた。果たして美味しいのだろうかと恐る恐る食べてみるが、熱々のカラマリとバゲットの相性は想像より良かった。
「美味しいです」
「そらよかったわ。おっちゃん、美味しいってさ〜」
 その言葉に眉を上げた店員は、日本に何事か告げる。
「しっかり食べな、って言うとるよ。こっちも食べ」
 スペインが注文した生ハムとチーズのサンドも美味しくて黙々と食べるが、三切れも食べないうちにお腹が一杯になってしまい、恨めしい眼で皿を眺めた。
「……もうたべられません」
 小さい身体がこんなに食べられないものとは。そういえば昨夜はぼんやりしていて、食べた量など考えていなかった。しかしこの食事が美味しい国に来て、食事をこんな量しか食べられないとはなんの拷問だろう。
 いや、それよりもスペインと言えばバルの飲み歩き。折角のスペインでの休日というのに、この身体ではそれもできないということか。
 落胆で暗い顔になった日本に、
「どないしたん?」
 とスペインが心配して尋ねる。
「……この身体ではご飯がたくさん食べられません。それにバルの飲み歩きもできません」
「あーそりゃ無理やんな。うちの法律では公共の場での飲酒は十六歳からってことになっとるしな。まぁ、公共の場やないなら十歳くらいから飲むのもおるけど、さすがに菊ちゃんは無理やな」
 苦笑するスペインに、カウンターから親爺が怒鳴る。
「いや、飲ませへんって。当たり前やん、そんなの」
 慌てて弁解した彼に怒ったように何か言うと、冷蔵庫の中から小さな器を出して日本の前に置き、一言告げるとほかの客に呼ばれて去っていった。
 なんだったのだ、と視線で尋ねると、
「それ食べて我慢し、って言うたんよ。ナティヤスってポストルや。食べてみ。残ったら俺が食べるさかい」
 そう勧められ、一口食べてみると、甘いカスタードクリームの上に丸いビスケットが載っているデザートは、ほんのりとシナモンの香りがした。
「美術館の後にお昼ご飯食べるし、夕方にはチュロスの美味しい店連れてったるし、その後はバルで、まぁ酒は無理やけど雰囲気とタパスだけ楽しめばええよ。無理にたくさん食べんでも、食べれるだけ食べ」
 立て板に水で食事の予定を並べ立てるスペインはそういえば一日五食食べる国であった。
 確かに朝ご飯は牛乳に菓子パンで済ませたが、この時間に食べるなら日本ならば昼ご飯だ。
 でもこのサンドイッチは昼ご飯ではないのですね、と日本は些か遠い目になった。
 
 

 
 



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