日本のスペイン旅行記


  5

 
 
 
「あーやっとあの煩いの出ていったわ」
 遠ざかるヘリを見送りながら大きく伸びをするスペインはまだ少し眠そうだ。
「日本、眠うない?」
「私は早く休ませていただいたので大丈夫です。スペインさんこそ、眠くないのですか?」
 昨夜は厄介ごとを全てスペインに任せ、さっさとフランスと一緒に寝てしまったのだった。
 日本が眠りに就く時にも階下から微かに怒鳴り声の応酬が響いていたから、きっと彼が寝たのはかなり遅くなってからだろう。
「うん? 平気やで。大体いつもこれくらいには起きとるさかいな」
「そうですか」
 からりと笑うスペインに、日本は神妙な顔でそう返した。小さな体を軽々と抱き上げる彼とのかつてなく近い距離を日本は居心地が悪く感じる。それは、昨夜からとんでもなく迷惑をかけ、醜態を晒した自覚があるからだ。
 すべては悪い夢で、朝になれば元の姿に戻っていないかと期待していたのだが、目が覚めても日本は子供かつ女性体だった。それに落胆したのは日本だけではなく、フランスも同じだった。
「ああ、残念だよ。いつもの姿の日本なら、今日の仕事の後、約束してたビストロに直行したんだけどなぁ」
「私も食べたかったです、フランスさんちの美味しいジビエ。前に連れて行っていただいたカフェのフォンダンショコラももう一度食べたかったですし、新作マカロンの食べ比べもしたかったです」
「まぁええやん。親分ちも美味しいものたくさんあるさかい、食べたい物なんでも用意したるよ」
 気前の良い親戚のおじさんのノリで胸を張るスペインは一人機嫌が良かったが、それとは対象的な表情を浮かべていたのが隣に座るイギリスだ。
「なぁ日本、……やっぱ一緒に来ないか? 一緒にいれば解除の魔法を何度も試せるし、きっと元に戻るのも早いと思うんだが」
 元に戻るまでここに居たらええやん、というスペインの申し出に、確かに今の子供の姿ではビジネスの場に向かうフランスの足手纏いになるだろうと気付いた日本は、その言葉に甘えることにしたのだった。
 それを朝食前に宣言してからというもの、辛気くさく暗い顔で溜息を吐き、その合間に口を開けば判で押したように同じことしか言わないイギリスにうんざりしながら、日本は同じ言葉を繰り返した。
「善処します、考えておきます、また今度。同じことを何度も私は言ったはずですが」
 これ、テレコにでも録音して流せないだろうか、と思い始めるくらいループする会話に辟易とする日本に、その気持ちを察したのか。おかしそうに笑うフランスが忠告を寄越す。
「ダメだよ、日本。そんな八ツ橋に包んだ言葉じゃ、この馬鹿には通用しないって」
「じゃあイギリスさんにも分かる言葉でお伝えしますね。私、元の身体に戻れるまで、ずっとスペインさんのおうちでご厄介になります。イギリスさんのお世話にはなりませんのでご理解下さい」
 いい加減分かれ! という気迫が伝わったのだろう。しおしおと悄れてはまた壊れたオルゴールのように同じ言葉を繰り返すだけだったイギリスがようやく違う言葉を発した。
「……だからなんでだよ! 俺がかけた魔法なんだから、俺が面倒みるのが筋だろう!」
「誰かさんのせいで私のパスポートは使えない状態なんです! イタリア君やフランスさんのおうちならともかく、イギリスさんのおうちなんて行けませんし、入れませんから無理です!」
 EUの一員のくせにシェンゲン協定を実施していないイギリスは、入国審査が厳しいことで有名だ。パスポートと顔も年齢も性別も一致していない今の日本では正攻法で入れるはずがない。
「そんなの俺と一緒ならフリーパスだろうが」
「それであの子供は誰だって取り沙汰されて噂されるんですか? 日本は子供みたいだから子供になっても違和感ないよね、って馬鹿にされろと? 嫌です、子供になったなんて、しかも性別まで変えられただなんて他の方に知られたら、恥ずかしくてお天道様の下を歩けません。イタリア君にだってドイツさんにだって言いたくないです、こんな黒歴史! お外に出るなんて真っ平御免申し上げますとも!」
 無理に連れ出したら切腹してやると眼差しで脅しをかけると、それでもぐずぐず不満を漏らしていたイギリスは、最後にはフランスに引きずられるように機上の人となった。
 戻ってくるのはギリシャの仕事が済む明後日以降。
 さすがにその頃にはイギリスの魔法も回復しているだろう……と思いたい。
 それまではスペインに迷惑をかけることになるが、しかし本当に誘いを真に受けて良かったのだろうか、と今更ながら不安を感じる。
「あの、この度は誠に申し訳ございませんでした……」
「なに、どうしたん? なんで謝るん?」
 深々と頭を下げる日本に、鳩が豆鉄砲を食らったようにスペインは目を丸くした。
「いえ、スペインさんもお仕事でお忙しいでしょうから、私の面倒などご迷惑でしょう。できるだけお仕事の邪魔にならないようにしますし、インターネット回線だけお借りできれば、フランスさん達のお仕事が済むまで私一人でも暇つぶしができますので、どうぞ私のことにはお構いなく」
 お構いなくと言ってもきっと食事とか迷惑をかけるんだろうなぁ、と肩を落としていると、「何言うとるんや」とスペインは日本を揺すり上げて笑う。
「水くさいこと言わんとき! 折角親分ち来たんやし、観光してってえや。俺がどこでも案内したるで!」
「しかしスペインさん、お仕事があるのでは?」
「今日は土曜日、明日は日曜やで。仕事は昨日うんざりするほどしたし、親分にも息抜きさせて〜」
 哀れっぽい声でおどけてみせる姿に、思わずくすりと笑う。それを見て嬉しそうに笑ったスペインは、
「で、どこ行く?」
 と訊ねた。その質問に、日本は暫し考え込む。
 スペインといえば、真っ先に思い浮かぶのは闘牛にフラメンコ。だがどちらも仕事で訪れた時の接待に必ず組み入れられ、何度も見ているものだし、今の子供の姿には相応しくない。
 ここマドリードの観光地は王宮に美術館にレアル・マドリードのホームスタジアムを思いつくが、王宮はそれこそ仕事で何度も訪れ、観光ルートとなっている部屋も普通に使用している場所だし、美術館もスタジアムも勿論仕事の接待で見学済である。
 それでも何度行っても良いと思えるのは――
「……やはりプラド美術館でしょうか」
 世界三大美術館の一つとして挙げる人もいる彼の美術館は、こと絵画に関しては世界一ともいえる質の高さだ。優れた芸術家を輩出したスペイン絵画の歴史を、この一つの美術館だけで堪能できる。
「やったら、今日は美術館めぐりやね」
「あ、でもその前に、どこか服を買えるところに連れて行っていただけませんか?」
「あー服か」
「ええ、これ一着しかないので、さすがに何かしら着替えが必要かと……」
 子供にされた時に一緒に縮んだシャツとズボンと下着、今着ることができるのはこれだけだ。手に持ってきたノートパソコンのキャリーの中に、念のための着替えを一式入れてきたが、朝試しても当然ながらサイズが合わなかった。
「早う気付いたらんとあかんかったな。それ、昨日からずっと着とるから、着替えたかったやろ」
「そうですね、できれば」
 正確に言うと、昨日どころかもう一昨日からの勢いでずっと着ている服だ。いい加減耐え難い。
「ちょい待ち、ロマーノが小さかった時の服がまだあったはずや。とりあえず服買うまでそれ着といて」
「あーでもロマーノ君の小さい頃というと……かなり古いものなのでは……」
「大丈夫や! 大事に保管しとるし、この間も水通ししたさかい、すぐ着られるで」
 そんなに大事にしているものを借りてしまっていいのだろうか、と思いつつ、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 と言ってしまったことを、五分後に日本は激しく後悔した。
 
 



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