日本のスペイン旅行記


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 ゆらゆらと微かに揺れる浮遊感と、すっぽり包み込まれるような温もり、そこに闇が加わると、疲れた心と身体は眠りへと傾く。他愛ないスペインとフランスの会話を聞くとはなしに聞きながら、一言も発しないイギリスを気に掛けているうちに、意識が途切れた。
 起こされた時には知らない家の中で、目の前にパエリアや生ハムやサラダやスープ、他にもテーブルいっぱいに料理が並んでいた。
 まるで夢の中にいるような気分のまま、取り分けられる料理を食べていく。酸味のあるトマトスープを美味しいと感じた時に、ようやく日本の意識は現実に戻った。
 ここはスペインの家なのだろうか。
 白い壁に洒落たインテリアの部屋を珍しく眺める。
「パエリャもっと食べる?」
「いえ、もうお腹いっぱいです」
「ならポストレ(デザート)にしよか」
 鼻唄を歌いながらプリンを盛りつけていくスペインの横で、フランスはミルクコーヒーを淹れてくれる。
 楽しそうにワインを飲みながら料理を食べている二人の横で、イギリスだけが無言で澱んだ表情だ。
 美味しいものを食べて心が落ち着くと心が寛大になる常で、日本は少しばかり可哀想かな、という気持ちになってきた。
 もちろん悪いのはイギリスに決まっているが、いつまでも無視するのも大人げない。だが、俯いた横顔にどう声を掛ければいいのかタイミングが計れず、ちらちらと横目で様子を窺いながら、プリンを食べた。
「もうゴチソウサマ?」
「はい、美味しかったです」
 上の空で食べ終わった日本に、
「トイレなら向こうだよ」
 とフランスが告げる。特にトイレに行きたかったわけでもないが、落ち着かない様子に見えたのかもしれない。暫く行っていなかったし、行っておくべきか。
 大人しく高い椅子から滑り降りると、
「イギリス、案内よろしく」
 とスペインがひらひらと手を振った。
 え? と振り返ると、怒ったような顔のイギリスと眼があう。表情とは裏腹に、翠の瞳は縋るような色だ。
 怒るのはこれくらいにしておくべきだろう。そう自分に言い聞かせた日本は、
「案内してくれますか?」
 とイギリスに声を掛けた。
 
 
 
 
「スペインさんのおうちには何度か来られてるんですか?」
「まぁ…な。仕事で約束した時間に来ない時、呼びにきたくらいだが」
「そうですか」
 続かない会話は、きっと言いたいことが別にあるせいだろう。涼しげな大理石の廊下をゆっくり歩きながら、互いの空気を探る。
 先に切り出したのはイギリスだった。
「その、……すまなかった、日本」
「いえ……私の方こそ嫌いだなんて言って、ごめんなさい」
 言ってしまえば、ほっとした空気が流れた。
 顔を見合わせて笑うと、少し赤くなったイギリスが、「畜生」と悔しそうな顔をした。
「すげー後悔してる。だってこれじゃ折角会えたのに、何もできないじゃないか」
 何もが何を指しているのかイギリスの雰囲気からすぐに察せられ、彼に負けないくらい赤くなる。
「あ、当たり前です、変なことしたら犯罪です!」
「中身が俺より年上でもダメか?」
 流れるような動作で膝をつき、覗き込むようにして視線を合わせるイギリスの表情は酷く甘い。二人だけの時にしか見せない色を含んだ熱っぽい眼差しに、日本は慌てた。
「中身は大人でも身体は子供なんです!」
 国民的人気アニメのキャッチコピーに似た台詞だ、と思いながらも、ここで流されるわけにはいかないと必死になる。さすがキスが一番巧い国に選ばれたことだけあり、イギリスのキス一つで籠絡されたことは数え切れない。
 こっそりキスくらいならと思わなくもないが、常識的に考えてこの格好でというのはよろしくないだろう。
「イギリスさんが変えたんですから、自業自得です!」
 うっかり流される前にと、トイレに逃げ込む。背後で「ケチ」と拗ねたようにイギリスが呟いた。
 それを聞きながら、日本は自然と笑みを浮かべた。
 我ながらイギリスに甘いと自覚もするが、やはり好きな相手がしょんぼりしているのを見るのは辛い。
 いきなり子供に変えられてとんだ醜態を曝し、あの二人に迷惑を掛けたのにはやりきれない気持ちだし、こう身長が低いとトイレの用を足すのも一苦労だろうが、小さくなった以上、これも滅多にできない面白い経験と考えればいい。
 そんな前向きな考えは、だが、ズボンのチャックを下ろすまでのことだった。
 
――あるべきものがない
 
 普段は意識もしないほど、そこに存在するのが自然な男のアイデンティティが股間から消え去っている。
 呆然と立ち尽くしていても、ないものはない。
 日本は恐るべき事実を認めざるを得なかった。
 
――つまりは幼児化に加え、女体化もか!
 
 のろのろとチャックを上げ、トイレから出る。
「……イギリスさん」
「なんだ、日本?」
 答えるイギリスは明るい笑顔だ。
「前言撤回させていただきます」
 その顔を日本はきっと見上げた。
「イギリスさんなんか、大ッ嫌いです!」
 家中に響き渡る大声にフランスとスペインが驚いて駆けつける。またもや泣く羽目になった日本を宥めすかして理由を聞き出した二人は、「お前が悪い」と口を揃えイギリスを責めた。
 



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