日本のスペイン旅行記


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 泣いているのだ、と気づいた時には、ぽろぽろと涙が零れ、なぜ自分が泣いているのか分らず混乱する。
 強ばった顔のイギリスや、驚いた表情のスペインに、自分がとんでもないことをしているかのような罪悪感に襲われ、パニックになる。
「ちょ、日本、大丈夫?」
「に、日本、どこか痛いのか?!」
 焦った顔で手を伸ばすイギリスの手を、「嫌だ」と強く感じ、振り払ってフランスの胸に顔を埋めた。
「に、日本?」
「イギリスさんなんか大ッ嫌いです!」
 反射的に叫んだ言葉は嘘ではない。
 でもそんなことが言いたいわけでもないのに。
「あー……日本、落ち着いて、ね」
 泣く子供の世話に慣れていないのだろう。狼狽えた声でぎこちなく触れてくるフランスにも迷惑を掛けているのだと思えば、涙を止めなければならないと思うが、我慢すればするほど涙が溢れてきて、気がつくとしゃくりあげて泣いている。
 自分の身体はどうかしてしまったのだろうか。どうして涙が止らないのだろう。
 自分らしくない行動と、自分でも制御できない身体が怖い。このままおかしくなってしまったらどうしよう。そんな想像にぞっとして、喉元までせり上がってくる畏れにますます涙が溢れた。
 どうしよう、どうしたらいいのだろう。
 せめて泣き声が漏れないようにと、無意識に唇に手をやった時だった。
「ほら、こっちおいで、日本」
 という言葉とともに、軽い浮遊感が襲い、次の瞬間スペインの腕の中にいた。肩口に顔を押しつける形で優しく抱き締められる。
「別にどこも痛いとこないんやろ? 怒っとるだけなんよな」
 しゃくり上げながら微かに頷くと、よしよしというように頭を撫でられた。
「ちょ、なに日本に勝手に触ってんだ、てめぇ!」
「お前は黙っとれ」
 日本を脅かさないためか、叱りつけるほどの強さでもないその言葉に何か言いかけたイギリスの声は、すぐにもごもごとくぐもった音になった。
 今はイギリスの声を聞きたくない。雑音に耳を塞いだ日本は、宥めるように背中をぽんぽんと叩くそのリズムにだけ耳をすます。
「身体が小っちゃいと、気持ちが身体に収まりきらんで涙が出るんよ。ロマーノもよう怒って泣いとったわ。自分ではコントロールできへんことやさかい、びっくりしたやろ? でも心配せんでもええ、小っちゃいと皆こうなるんや」
 おかしくない、皆そうだと断言され、ほっとする。
「日本は親分の分も一緒に怒ってくれとるから、二人分の気持ちで身体がびっくりしただけや。日本は優しいなぁ。日本が怒ってくれたおかげで、親分の怒る分のうなってしもたよ、ありがとうな」
 随分と子供の扱いに慣れているのだろう。スペインの言葉は泣く子をあやす方便だと頭では分っていても、ふわりと心が軽くなった。
「あとな、泣くつもりないのに涙出るんは、疲れとるのとお腹すいとるのもあるやろな。ずっと飛行機乗っとって、ご飯もまだなんやろ?」
 こくりと頷くと、そうか、と頭を撫でられる。
「それやのに着いたらいきなりこんな目に遭わされて、ほんま腹立つよなぁ。よしよし、悪いのはぜーんぶあの眉毛や、あとできっちり怒っとかなあかんな。でもその前にご飯食べるんが先や。親分が美味しいものたくさん準備したるよ。何がええ?」
「……パエリアはありますか?」
 おずおずと躊躇いがちに出したのはまだ涙声だった。
 だが、みっともなくて嫌だったしゃっくりが止っていてほっとする。
「勿論や。うちで一番美味しい店のんを用意したる。 鶏肉も魚介も全部入ったミスタがええ? それとも魚介だけのマリスコスもあるよ?」
「……全部がいいです」
「了解や。それに ソパ(スープ)と エンサラーダ(サラダ)もつけよな。最後はほっぺたがおちそうなくらい甘いフラン(プリン)や、どや? 楽しみやろ?」
 子供にするように頬を優しく抓られ、くすぐったい気持ちで小さく笑うと、涙も止まった。
「あの……すみません。ご迷惑おかけしました」
 恐る恐る顔を上げると案の定。スペインの青いシャツは涙で変色している。なんということを、とがっくり落ち込みながらも、とにかく頭を下げる。
「言うたやろ、日本が悪いことなんかあらへんよ。悪いのはみんなあの眉毛やで」
 笑顔で断言するスペインに、曖昧な笑みを浮かべながら、そっと視線を向けると、イギリスの口を押さえながら拘束をかけているフランスと目が合った。
「フランスさんも……、取り乱してしまい申し訳ありませんでした」
「いやいや、スペインの言うとおり、悪いのはこの眉毛だからね。むしろこいつには良い薬になってよかったとお兄さん思います」
 明るくそう返してくれるフランスに、含羞んだ笑みを浮かべるが、イギリスと目が合い、反射的に視線を逸らす。
 イギリスがショックを受けている顔が浮かぶ。でも今は何を言えばいいのか分からない。嫌いだなんて言って悪かったなという気持ちもあるが、でもそれを否定できる気分でもない。
 俯く日本の頭にぱさりとスーツの上着が掛かり、視界が隠れた。
「疲れたやろ。親分ち帰るまで、少し寝とき。着いたら美味しい料理が待っとるからね」
 日本が言葉に困ったのを察し、何も言わなくて良いように気を回してくれたのだろう。その言葉と頭を抱き寄せる温かい手に甘えて、そっと眼を閉じた。
 



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