日本のスペイン旅行記


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「……すみませんでした」
 カーペットの床で土下座をするイギリスは神妙な面持ちで、時代劇の農民がするような大仰な平伏をする。 
 その姿を見下ろす日本は、幼児の姿となっていた。
「……元に戻せないって、どういうことですか」
「多分、だが、魔力を使い過ぎたんじゃないかと……」
 思うんだが……という力ない語尾は、分厚いカーペットに吸収される。
 その様子に溜息を吐く日本を慰めるように、フランスが腕に抱くその身体をそっと揺すった。
 レストランで出会い頭にイギリスの魔法に掛けられ、大の大人が幼児に変容した瞬間は、ことが起きたのがちょうど店内の一番奥の目立たない席だったことと、日没後の残照が闇の帳に覆われた瞬間に重なったこともあり、他の客が目撃した様子はなかった。
 配置されていた観葉植物がちょっとした障壁の役目をなして視界を妨げ、小さくなってしまった日本を隠したことも幸いだったのだろう。
 だが、スペインとフランスの罵倒と叱咤を受けて、必死に日本を元に戻さんとイギリスがステッキを振ること十数回。
 うんともすんとも言わぬステッキに周章狼狽した三人の混乱振りが衆目を集め、慌ててVIP用のパーソナルラウンジに駆け込むこととなった。
 先程までいた東洋系の成人男性の代わりにいつの間にか現われた幼児にウェイターは怪訝な眼を向けたが、客の笑いと話題を攫っていたのはむしろ奇矯な格好をした半裸のイギリス人で、これが災い転じて福となるというやつなのだろうか、とフランスに抱きかかえられて運ばれながら、日本は他人事のようにその様子を内心評していたのだった。
 そのイギリスは、ブリ天の格好からスーツ姿に着替え、神妙な顔をしている。
 それを見下ろした日本は、また一つ溜息を吐くと原因を追求した。
「だいたいなんだって、こんなことになったんですか」
「べ、べつにお前にかけるつもりじゃなかったんだぞ」
「……当たり前です」
 狙ってこんな凶行に及んだのなら、縁切りものだ。
「こいつ俺を小さくしよ思っとったんやで。最悪や」
 憎々しげに顔を顰めるスペインを狙ってのことくらい予想がついている。知りたいのはその理由だ。
「いったいなぜそんなことを?」
 その質問にばつの悪い表情を浮かべたイギリスは、狼狽えたように視線を彷徨わせた。それだけでも碌な理由ではなかろうと推察はついたものの、渋々白状したイギリスの説明とそれにツッコミを入れるスペインの補足から判明した事の次第は、呆れるほど馬鹿馬鹿しいものだった。
 そもそもの事の起こりはスペインのアメリカに対する愚痴だったのだという。容赦ないその非難にイギリスが反論し、そこからイギリスの教育方法に話が及んで、やがて双方の弟分の自慢合戦へと展開したらしい。「でも自分、アメリカから兄扱いされてないやん」というスペインの言葉でイギリスが撃沈。それに追い打ちをかけるような「ほんま、眉毛の相手すんのめっちゃ疲れるわ〜。早う帰ってフランスと一緒にバルでも行って、美人に慰めてもらおかな。あ、お前は一緒に連れていかへんで。だってそんな眉毛、気持ち悪いって相手が近寄って来いへんやろからな」というスペインのせせら笑いにイギリスがぶっちぎれ、「上等じゃねえか! だったらもっと女どもにキャーキャー言われる姿に変えてやるぜ!」とブリ天姿でステッキを取り出し、今に至る。
「絶対この眉毛、自分が女の子と遊ばれへんからって僻んで俺を子供に変えようとしたんやで」
「ば、馬鹿、そんなわけないだろ! お前んとこの女なんてちょっと尻と胸がでかくて露出度高いだけじゃないか。別に羨ましくなんかないし、興味ねぇよ!」
「ホンマかいなー。きっとあれや、日本の姿見て、後ろめとうなって思わず手元狂ったんちゃうの」
「そ、そんなわけないに決まってるだろ! 後ろめたいなんてそんな――」
 両者の言い争いを冷たい眼差しで鎮めた日本は、口許に笑みを浮かべると、視線ばかりはそのままでイギリスを見下ろした。
「イギリスさんは馬鹿ですか、いや、馬鹿なんですね」
 稚い幼子の姿形だが、しかしその舌鋒は鋭い。
「来週には世界会議があるんですよ。それなのに要であるスペインさんを小さくしようとするなんて、何の為に今日一日お仕事されたと思ってるんです?」
 冷たい声で浴びせられる正論過ぎる正論に、イギリスは項垂れた。
「だいたいあなたの魔法はまともに解除できた試しがないんですよ。それなのになぜこうも学習能力がないんですか?」
「悪かった、日本。明日には元に戻せると思うから……いや、絶対元に戻すから!」
「イギリスさんの絶対なんて信じられません」
「いや、でもだな、あーそれにもし明日が無理でも、そのうちちゃんと元に戻るから心配すんなよ。ああ、そうだ! 俺んちに帰ったら力も貯まりやすいかもしれないよな。そんな格好じゃなくてうちにはもっと可愛い服があるし、おもちゃもあるから今からうちに来ればいい」
 叱責を柳に風、良いことを思いついたと言わんばかりの満面の笑みで、手前勝手なことを提案するイギリスに日本は唖然とした。
「大体、お前は働き過ぎなんだよ。ちょうどいい機会だから、会議までうちでのんびり休んどけよ。いや、これはお前を心配して言ってるんじゃなくて、一般論だからな。過労で倒れられたら他のヤツの迷惑になるから、一応忠告してやるだけだぞ」
 上機嫌で好き勝手述べるイギリスにムカムカする。
 一体誰のせいでこんな目に遭っていると思っているのだろうか、この男は。考えなしに魔法を使った自分のせいだろうが。それを嬉しそうにしゃべりまくって、何を考えているのだ。いや、何も考えていないから脳天気にペラペラ囀っているのだろう。
 こんな姿に変えられた自分の不安や不快を、彼はまったく理解していないに違いない。
 大体会議の時までに元に戻れなかったらどうなると、いや、どうすれば……
「まだまだ会議まで時間はあるから、一緒に旅行にでも行くのもいいよな、今なら――」
 自分の考えに入り込んでいた日本は、イギリスが言葉を呑み込んだことに気づくのが遅れた。
 不自然に落ちた沈黙に顔を上げると、自分の視界がおかしい。
「ど、ど、どうしたんだ、日本?!」
 さっきまでニヨニヨ笑みを浮かべていたイギリスが歪んだ心配顔になっていて、あれ? と瞬きをすると、ぽろりと濡れた感触が頬に落ちた。



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