日本のスペイン旅行記


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 シャルル・ド・ゴールに降りた時にはまだ明るい昼間の空は、マドリードのバラハス国際空港に着いた時はさすがに夕暮れになっていた。
 とはいえ時刻は七時半を過ぎている。十月ともなれば五時過ぎには日が沈む東京では既に真っ暗だが、サマータイムを導入しているせいか、スペインの日没は遅いようだ。
『到着したらフランスの携帯か、私の携帯にご連絡下さい』と搭乗の時に渡されたメモをポケットから取り出した日本は、まずはフランスの携帯を鳴らした。
『コンバンハ、菊ちゃん。今どこ?』
 部下から既に連絡が行っていたのだろう。
 二コールで電話に出たフランスは、いつもと変わらぬ朗らかな声で場所を訊ねる。
「ターミナル2の到着ゲートを出る所です」
『あ、なら二階に上がってくれるかな。航空会社のカウンターから搭乗ゲートに向かう通路の奥にあるブラッセリーにいるんだよ』
 迎えに行こうか? という言葉に「結構ですよ」と返す。勝手が分らぬ空港内で目印もなく双方が動き回るよりは、指定の場所を目指す方が間違いがない。
 大きなスーツケースはフランスの部下に任せて身軽だし、話している間にチェックインカウンターの階に上がり、通路奥のレストランまで辿り着く。
 何段か床が下がった店は通路からフロア全体が見渡せ、店の一番奥、窓際の席にイギリスの姿を見つけた日本は自然と笑みを浮かべた。
 通路を塞ぐエスカレーターや階段が目隠しとなるせいか、旅客は突き当たりのこの店に気づかず通路途中のカフェやバルに入るのだろう。疎らな客の殆どがパイロットや乗務員、空港関係者であろう制服姿の中で、イギリスの姿は目立っていた。
 国の化身同士の特性か、人の中にいても互いの存在は一目で分る。人と国の化身は別種の生き物にように異なって感じ取れるのだ。
 だが、もし仮に彼が国の化身でなかったとしても、恐らくその姿を美しいと感じ、目を奪われただろう。口に出すことは少ないが、日本はイギリスの容貌が誰よりも美しいと思っている。それは恐らく惚れた欲目というものに違いないが、そう自覚しながらも、暫しその姿に見蕩れた。
 前に座っている後ろ姿はスペインに違いない。フランスの姿が見当たらないのはなぜだろう。そう考えながら階段を下りていくと、
「いらっしゃい、菊ちゃん」
 と目の前に彼が立っていた。手にしている皿からして、ビュッフェ形式の料理を取っているらしい。
「お疲れさまです、フランシスさん」
 自分達が国の化身と知らない一般人が居る場での常で、仮名を用いて労りの言葉をかけると、よほど精神的疲労が蓄積していたのか、フランスらしからぬ怒濤の勢いで愚痴が漏れた。
「いやー、もう疲れました。朝っぱらいきなりルートヴィッヒから電話がかかってきて、急遽アントーニョに説教かましにいくことになってさ。それから延々八時間近く缶詰だよ。ここぞとばかりにアーサーがアントーニョを馬鹿にして怒らせて、その度に話が脱線するし。大体あの馬鹿、自分とこも危ないから人のことなんか言えないのにねぇ。まぁ、会議の前に現状認識させる必要があるのは事実だからイギリスもいた方が良かったような、いやでも悪かったような……。そんなわけで連絡も入れられず、ごめんなさいでした」
「いえ、私の方はお気になさらず。私は部下の方のお陰で助かりました」
「あのフライトの後にまた来てもらうのは悪いかなと思ったんだけど、どうせならアーサーもアントーニョもいるし、こっちに来るかなと思ってさ」
「乗り継ぎもスムーズでしたし、大丈夫ですよ。それよりお忙しかった中、わざわざ空港までありがとうございます。あの、でももしかしてこのまま本国に帰られるんですか……?」
 恐る恐る訊ねると、「まさか」とフランスは笑った。
「半日以上機内に閉じ込められていた人に、そんな酷い仕打ちしませんって。ここに来たのはルートヴィッヒが一度帰らないといけないっていうから便乗して、菊ちゃんを迎えに来ただけだよ」
 その言葉にほっとしつつも、引っかかりを覚える。
「一度、ということはまたお見えに?」
「あー……うん、それが明日はイタリアに行くことになっててね。その後、間を挟んでギリシャです」
 疲れた顔のフランスが名を挙げたのは、どちらもEU内で財政状況が危険水域に達しつつある国々だ。
「それは……本当にお疲れさまです」
 ははは、と力なく笑いながら料理を取り終えたフランスの後に続く。
「まぁそんなわけで今晩はここに泊まって、明日はイタリアに飛ぶんだけど、菊ちゃんも一緒で良いかな? お兄さん達がお仕事の間は遊んでくれてていいし」
「ええ、結構ですよ」
「勿論アーサーも一緒だからね。奴は仕事だけど」
 ニヨニヨと笑うフランシスの言葉は黙殺する。
 アーサーと恋人同士と知っている国からたまに仕掛けられる揶揄にイギリスは過剰反応するが、日本は黙殺することにしている。もっとも不意打ちのようなそれに、微かに頬が紅くなるのは止められない。
 それ以上揶揄するでもなく、
「お、LF(ルフトハンザ)だ。多分、ルートヴィッヒが乗ってるのはあれだな」
 とフランスは、窓外に視線を向けた。
 壁は全て全面硝子張りで、滑走路が見渡せる。飛行機が列を連ね、離陸の順を待っているのが見えた。
 以前三人で一緒に行った、アクアパッツアが美味しかったお店に行けるだろうか。イギリスやフランスが一緒なら、さぞ賑やかで楽しいだろう。
 視界の端に去っていく飛行機を目で追い、そんなことをぼんやり考えていたのがいけなかったのかもしれない。
 斜め前を歩いていたフランシスが立ち止まったことに気づかずぶつかりそうになり、慌てて身を翻す。
 トレイを持った相手に衝突せずに済み、ほっとした日本の耳に飛び込んだのは、聞き覚えのある、そして今ここで聞くはずのない響きだった。
 
「ほあた!」
 
――え?
 
 と思う間に、視界が白く烟る。
 ぐにゃりと視界が歪み、強烈な違和感に耐えきれず眼を閉じたのはさほど長い間ではなかったはずだ。
 だが一瞬がスローモーションのように引き延ばされたようにも、長時間が凝縮されたようにも感じられる狂った経時感覚に耐えかねて、よろめき膝をつく。
 巨大なジェットコースターに乗っているような墜落と上昇、そして浮遊の感覚。
 ぐわんぐわんと血流が脳裏に響く。
 手のひらから伝わる冷たいリノリウムの床の確かさに、極彩色の眩暈に襲われていた意識がようやく現実と同期する。
「 Oh! Mon Dieu(なんてこった)! 」
 喘ぐようなフランスの声に何かとんでもないことが起こった予感がして。
 恐る恐る眼を開けると、唖然とした顔のフランスとスペイン、真っ青になっているイギリスがいる。
 なんだか遠近感が変だ。
 どうしてこんなに床が近いんだろう。
 ぞわぞわと嫌な感覚にゆっくりと視線を落とすと、己の手が、指が、信じがたいほど小さくなっていて、日本の思考は停止した。



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