日本のスペイン旅行記

※ 人名使用
※ 時事を含みます
※ 以上が地雷の方は廻れ右で。



序章



 およそ十二時間四十五分のフライトを終えて降立ったシャルル・ド・ゴール国際空港で迎えてくれるのは、フランスのはずだった。
 だが、ゲートを出た所で待ち受けていたのは、顔見知りのフランスの部下で、出会い頭に深々と頭を下げられた日本は困惑した。
「申し訳ございません。フランスは急な仕事で留守にしており、代わりに参りました」
 流暢な日本語を操る彼は恐縮しきりで平身低頭だが、スーツ姿の壮年ビジネスマンが、自分の肩くらいまでしか背のないラフな格好の東洋人の青年に頭を下げている図は随分と目立つ。
 自分たちが衆目を集めていることにすぐに気付いた日本は、焦って相手を制止した。
「あ、あの、わざわざありがとうございますが、どうぞお顔をお上げください」
「いえ、フランスからもしっかり謝罪するよう申し付かっておりますので」
 と改めて深々と最敬礼をする姿に、フランスさんの部下にしては随分と真面目で四角定規な人だ、とこっそり感心する。
 そもそも来週末に開催される世界会議のための渡仏を前倒ししたのは、連休に合わせてフランスで休日を過ごそうとした日本の勝手だった。
 勿論それは日本の祝祭日カレンダーを把握しているフランスからの「折角こっちまで来るなら、早めにおいでよ。会議前の打ち合わせってことでさ」というお誘いがあったからではあるが、今回の世界会議の議長国がフランスである以上、彼がその準備に追われるのは目に見えていたし、好意に甘えて彼の家に滞在させてもらう以上のことは期待していない。
『着いた日は迎えに行くから直接晩ご飯に行こう。ジビエの美味しい新しいビストロを見つけたんだよね』
 と言われていたから多分迎えに来てくれているんだろうな、とは思っていたが、無理だと連絡を貰えれば、一人で彼の家でも適当なホテルでも行けたのだ。

――わざわざ部下まで寄越してくれなくても良かったんですけどねぇ……

 どれだけ危なっかしいと思われているのか、欧州に来ると、これは子供扱いでは? と首を傾げたくなる過保護を各国から示されるのだが、これもその一環か。
 やれやれ、と思うが、指摘する程のことではないと流した日本は、違うことを訊ねた。
「ところでフランスさんはどちらへ?」
「今朝早くにドイツ氏から連絡があり、急遽スペインへ向かいました」
「スペインさんのところですか」
 さすがに今朝急に決まった仕事ならば、日本に連絡することはできなかったのだろう。なにしろその頃の日本は当の昔に空の上だった。
「日本様にはお約束のビストロはもちろん、ご希望の店があればどこでもご案内させて頂くよう申し付かっております。私がご一緒させて頂きますので、ご不自由はおかけ致しません」
 その申し出に言葉が詰まる。
 通訳に困らないのはありがたいが、殆ど面識のない相手との食事など、気の詰まる時間でしかない。勿論、フランスの部下だし、日本語も話せるからにはそれなりに話も弾むのかもしれないが、試してみたいとはあまり思わない。だいたい相手も勤務時間外に珍客と食事など嫌だろう。プライベートを楽しむフランス人は、さっさと帰りたいに決まっている。
 さりとて何も食べないわけにはいかない。
 なにしろフランスお勧めのジビエを期待していたので、機内でも軽食程度にしていたのだ。留守宅のフランスのキッチンを勝手に使わせてもらうのは、フランスは構わないと言うだろうが、日本の気が引ける。かといって空港で買えるようなテイクアウェイのサンドイッチの不味さは疲れている時には勘弁して欲しいし、あからさまに一緒に食事をするのが嫌だからと言っているようで憚られるが、この際背に腹は代えられないだろうか。しかしわざわざ美食の都パリでの最初の食事が売店のサンドウィッチというのも……
 葛藤し、黙り込む日本に、
「もしくは、このままスペインへ向かい、フランスと合流できるよう飛行機も押さえております」
 と男は続ける。
 その提案に日本は少し考え込んだ。
 スペインへはここ暫く行っていない気がする。
 ただ、十三時間近いフライトの後に、また飛行機に乗るというのも億劫ではある。それに何時間かかるか知らないが今から移動すると着くのは夜だろう。
「入れ違いになるということは……?」
「先程連絡を入れました所、会議中とのことでした。会議終了の連絡がまだ入っておりませんので、その心配はないかと」
「そう…ですか……」
「それから、イギリス氏も一緒だそうです」
 そう付け加えた彼が、日本がイギリスと恋人同士として付き合っていることを知っていたのかどうかは定かではない。
 しかしその言葉で心は決まった。
「飛行機の時間、まだ間に合いますか?」
「念のため搭乗手続きは済ませております。そろそろ最終案内ですが、連絡を入れるので問題ありません」
 おいおい、本人いないのに搭乗手続きですか?!
 私のパスポートがいるんじゃなかったですっけ?
 ていうか、思いっきり行かせる気満々に感じるのは気のせいですかね……。
 という内心のツッコミを、大人しい日本人の代表である日本は勿論口に出さなかった。
 きっと行かずに残ると言っても、それはそれでなんとかするに違いない。
 国家権力とはそういうものである。
「じゃあ、このままスペインさんの所へ行きます」
 と告げると、男は即座に携帯電話で連絡を入れると、日本をまた来た道へ誘導し始めた。

――それが運命の分岐点だったのだろう
 
 とは勿論後日の回想だ。
 後悔は当然、事が起きた後にするものであり、岐路に立たされた時にはそれに気付かないことが多い。
 だが、自分が思い描いていたフランスでの休暇が、予期していたものとは違うものになる予兆はその時点で感じ取っていた。



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