日本のスペイン旅行記


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   日本の了承に相好を崩したイギリスが次に喜々として差し出してきたのは、用意したというドレスで、いい歳した男がなんで揃いも揃って着せ替えごっこに興じたがるのだ? と国の化身の特性に日本は激しく疑念を抱いた。
 勿論日本も同じ事をしないかと問われれば、しますと答えるしかないが、それは己のオタクの血が騒ぐだけで、そんな因業な血などない普通の若い男性は、着せ替えごっこなどに興味を示さないはずだ。一部マニアックなコスチュームプレイを除いては。
「何が楽しいんですか、そんなこと」と突っぱねた日本だったが、「だってお前こんなにドレス着てるじゃないか、しかもフランスのドレス!」とどこから入手したのかロマーノ撮影の写真を翳され、あの時断固として拒否していればと後悔し、「スペインのも着たって聞いたぞ!」という言葉に、口の軽いフランスを呪った。
「あいつらのは着て俺のは着ないのかよ!」という言葉には山のように反論はあったが、それを飲み込んだのはもういい加減口論に疲れたのと、なぜ限られたスペインでの時間をこんなくだらないことで費やさねばならぬのだという空しさが込み上げてきたからだ。
 そして有り体に言えば、空腹に負けた。
「とにかく何か食べたいです、美味しいものが食べたいです!」
 差し出されるがままさっさと着替え、今連れて行けすぐ連れて行けとせかす日本に、念願叶って上機嫌なイギリスは、
「お前のためならどんなご馳走だって用意してやる。望むなら三つ星レストランも借り切ってやるさ」
 と甘い言葉を囁く。
 別に三つ星レストランなんかじゃなくて、その辺りのバルでもこの国では充分に美味しいものが食べられる。だからさっさと何か食わせろという気分だ。
 なにしろ時計を見ればもう十時、晩ご飯には遅い時間である。だが、その認識は、イギリスの腕に抱かれ、暗い石造りの建物の廊下から明るく広い空間に出た時に強制的に修正させられた。
「あの……明るいんですけど?」
「ああ、朝だからな」
 開け放された玄関口から射し込む陽射しは確かに朝日の眩しさだ。
「……今日は何日ですか?」
「十二日の……そろそろ十時二十分になるな」
 十二日といえば水曜日。記憶にあるのは火曜日のシエスタまでだ。
「……イギリスさん、私に薬飲ませましたね!」
「俺じゃなくて飲ませたのはオランダだぞ。俺はただ、日本を引き取ってきてくれと頼んだだけだ」
 オランダさんめ……妙な態度とは思ったんですよ。あの時のアロマキャンドルか? それともチョコレートか? と記憶を手繰っていた日本は、はっと大切なことに気がついた。
「あの、ロマーノ君とスペインさんにはちゃんと伝えているんですよね?」
「問題ない」
 問題ないってなんだ? YESと答えない所がとてつもなく怪しい。
「本当ですか? ロマーノ君に連絡させてください。もし伝わってなかったらものすごく心配をおかけしていると思いますので」
 なにしろ昨日、いや、もう一昨日か、観光中にうっかりはぐれて、死ぬほど心配させたその直後だ。ほんのちょっと見失っただけでも真っ青になって本気で怒っていたロマーノは、迷子どころか誘拐となればどれほど心配することか。「心配させるんじゃねぇ!」と抱きしめてくれた彼の手が震えていたことを思い出し、いてもたってもいられない気分になるが、イギリスは、
「悪いがそれは聞けない」
 と言い放った。
「オランダがお前の件を問題なく処理してるはずだ。それにあいつらのことだ、電話なんかしたら逆探知して、俺とお前のデートを邪魔するに決まってる」
 だから変装までしてこうやってオランダに頼んだんだぞ、という主張に脱力するが、いやいや、ここで脱力していたら始まりませんよ、と気を取り直した。
「じゃあオランダさんでいいですから、もう一度確認してください。じゃないと人攫い、って警察に駆け込みますよ!」
「駆け込んでも言葉が分からないだろ? それに俺達は親子ってことになってるからな。うちの娘が反抗期で、って言えば無罪放免だ」
 威張って出された偽造パスポートには、いつ撮られたのか分からない幼い日本の顔写真が貼ってある。
 そこまでするか、この男……
 用意周到さに頭痛がしてくる。
「確認してくれないと、私、イギリスさんと口利きませんから!」
 そう宣言すると渋々携帯電話を取り出し、短く番号を押し、話し出す。
「俺だ。あいつらには確実に子供は返してもらったと伝えたんだよな?」
 その言葉に耳を澄ませば、オランダの声で、『依頼通り伝えとる』と聞こえた。
「ほらな、大丈夫だろ。さて、まずはご飯だな。その後はのんびり散策でもするか」
 うきうきと算段するイギリスの腕に抱かれながら、『依頼通り』で『大丈夫』な誘拐犯からのメッセージが、ちゃんとスペインやロマーノを安心させるものであってくれればいいのだが、と日本は幾ばくかの不安を覚えていた。
 
 

 
 



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