日本のスペイン旅行記


  19

 
 
 
「…………ええと、どちらさまで」
 その言葉に一瞬沈黙した男だったが、すぐににやりと笑った。
「さすが、MI6が総力を挙げただけのことはあるな。俺の変装は恋人も騙せるほど完璧ということか!」
「……私の恋人は、金髪で緑の瞳です」
「ああ、そうだな。でもいつもの格好だと目立つだろ」
「髪を染めて目の色まで変えてこっそりやって来なければならない恋人には、いえ、知人すら心当たりはございません。ということでお引き取り下さい」
 能面のような表情で淡々と言葉を紡ぎ、子供らしからぬ慇懃な態度で一礼をすると、泡をくった表情のイギリスが膝をついてにじり寄った。
「おい、ちょっと待て日本! お前怒ってんのか?!」
 怒ってるのかだと? 言わずもがなである!
「当たり前です、早く私を元に戻してください! 変装ごっこなんかする暇があったら、なんで朝のうちに来てくれなかったんですか!」
 そしたら午後から観光ができたのに、と恨めしく思う日本である。折角のスペイン、行きたい所はまだまだたくさんある。
「すまない、早く会いたいのは俺も同感だったんだが、変装はどうしても必要でな」
 拗ねんなよ、と無駄に良い笑顔で頬を撫でられ、顔が引き攣る。多分かなりずれているであろうお互いの意識を指摘して、擦り合わせをするのは徒労だ、と今までの経験で学んでいる日本は、さっくりそれを無視しビジネスライクに事を進めようと決意した。
 なにしろ変装したイギリスが寝ている間に自分を彼の手元に勝手に連れてきた――端的に言えば誘拐で実行犯はオランダ、だから彼は妙な態度だったのかと納得する――という時点で最早嫌な予感しかしない。
「まぁ、イギリスさんに何かしら変装の必要があったというのはそれはそれとしてですね、とりあえず早急に私の身体を元に戻してくれませんか?」
「当然だ。もちろん戻すに決まってるだろ」
 笑顔で快諾されて、ほっと胸を撫で下ろす。だが、それに続く言葉に表情が凍り付いた。
「でもその前に恋人の願いを聞いてくれないか?」
「……ええと、それは私を元の姿に戻してからということでいかがでしょう? そしたら善処します」
「善処ってNOじゃねえか、それに元に戻す前じゃねえと意味ないんだよ!」
「ならば尚更、断固としてNOと言わせて頂きます!」
「なんだよ、聞くくらいいいじゃねぇか!」
 恨みがましい眼差しを向けられ、ここで折れてはならぬと分かっていながら、日本は折れた。色は変わっても恋人の縋るような瞳には弱い。
「その、だな、俺の魔法のせいでお前に迷惑をかけただろう。それなのに、何の責任もとっていないのは、あー…紳士としてあるまじき態度だと、お前と会えなかった長く辛い時の間中、俺は反省してだな……」
 要点は簡潔にお願いしますよー、いや多分聞きたくない結論なのは分かってるんですけどねー、ともじもじ頬を赤らめる英国紳士を生ぬるい目で眺める。
「それで、だな、やはりここは紳士らしく責任を取ろうと思ったわけだ!」
 分かっただろ、と言わんばかりの決め顔に、いや、全然分かりませんから、と内心つっこんだ日本は、「それで?」と冷たく返した。
「どう責任をとっていただけると? 慰謝料でもくださいますか? ああ、金のやりとりが無粋というのであれば、クリスマスプレゼントということでユーロファイター二十機ライセンス付き辺りで手を打つのも双方にとって幸せかと」
「なんだよそれ! 俺のメリットねぇぞ、それ!」
「いえいえ実績をつくっておけば、後継機種も導入しやすいですよ。うちの官公庁では前例が何より重んじられますから」
「そうじゃない! そんな即物的なものじゃなくて、もっとこう精神的な充足だの幸せだのをだな……」
「あー私の幸せは今すぐ、直ちに、些かの停滞もなく、元の姿に戻していただくことなのですが……」
 という日本の言葉など耳に入っていないように、なぜか遠い目になったイギリスは滔々と続ける。
「どうやったらお前に与えられるか、会えない間中、俺はずっと考えていたんだ。別れる前の日に、俺は何度もお前を泣かせてしまっただろう? あの涙には俺は胸が引き裂かれんばかりの悲痛を味わった。当事者のお前はなおのことだったろう? そんな辛い思い出だけをお前に残したくないんだ」
 
――ええと、話が全く見えませんが?
 
 これをこのまま大人しく聞いていれば、異世界へ旅立ってしまったかのようなイギリスの言葉が理解できるようになるのだろうか? ……もっとも理解したいとは思えないのだが。
「別にこれはお前のためじゃない。お前にとっては不幸なアクシデントを引き起こした者として当然果たさねばならぬ責任だ。しかる責務ゆえ、俺はお前の心の痛みを拭えるだけの幸せな時間を与え、哀しい記憶を素敵な思い出に変えなければならないんだ」
 いや、あの……とりあえず、スペインさんちでそれなりに楽しくやってたので、別に責任を取ってもらう必要なんてないんですが……
 というツッコミを今口にしてはいけない、と空気のプレッシャーからひしひしと肌で感じる。
 
――だから結論を頼みます! 簡潔な結論!
 
 両手を握り、真剣な表情で覗き込んでくるイギリスの髪の色と目の色が普段と違うというだけで、なんだか妙に居心地が悪いのだ。
 ああもう早く結論来い! と微妙に視線を逸らしながら願い倒す日本の耳に、
「だからその姿のお前の一日を俺にくれないか?」
 という囁きが流し込まれ、悪い方向で予想通りだった言葉に日本はがっくりと肩を落とした。
『あーはいはい、つまり、幼女姿の私とお手々繋いでデートをするというイギリスさんの欲望を満たしたいんですよね! そういう意味では確かに私のためではありませんとも! 爺、納得、よーく分かっておりますよ!』
 と、言いたい!
 八つ橋なぞ破り捨てて思いっきり図星を指したい!
 大体変装して人を誘拐しくさったという時点で、イギリスの目的など読めていたのだ。コンマ一パーセントくらいの可能性で、違う結論であってくれないかなぁという日本の甘すぎる願望が結論を長引かせていただけであった。
 でも!
 今の自分ならNOと言えますよー、なんて言ったって私の方が(外見だけは)年下ですからね!
 甘えられても突っぱねられますとも!
 絶対に断ってやる! と意気込んで開かれた日本の口は、縋るようなイギリスの目の下に浮かぶうっすらとした隈に、力なく閉ざされた。
 よく見れば少しやつれた顔だ。そういえば休みも返上で、本国での仕事があったとフランスが言っていた。
 スペインからイタリアへ飛び、それから英国、ギリシャときっと分刻みのスケジュールをこなしていて、それなのにその間中ずっと自分のことを考えていただなんて言うのだ、この人は。そしてそんなに忙しいのにこんな変装までして、なんなんですかこの人。なんでこんなに馬鹿でややこしい人なんですか!
 日本は内心で降参の手を上げた。
 確かに困ったことをしでかすし、アメリカの言う所の「あれが愛情っていうなら、本人によく似て捻くれすぎて間違ってるよ!」というどこかずれて重い愛情表現にげんなりすることもあるけれど、それでも本当に大好きな人なのだ。
 それこそ、そんな馬鹿で、ややこしくて、ずれた所も愛おしいと思ってしまうくらいには。
 だから結局は溜息混じりに、
「仕方ないですね、一日だけですよ」
 と告げて、いつものように折れてしまったのだった。
 
   

 
 



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