日本のスペイン旅行記


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   三日前から着信の履歴がない携帯を眺め、ベッドに寝っ転がった日本は溜息を吐いた。
 イギリスから電話がない。
 昨日までギリシャで仕事だったはずだが、まだ終わっていないのだろうか。
 仕事の邪魔をしてはいけないと昨日まで電話を控えていたが、さすがにもうそろそろしてもいいよな、と考える。なにしろイギリスが帰ってくるはずの午後も過ぎているのだ。
 今日は朝からいつになったらイギリスが来るのかと気もそぞろで、一緒にお菓子作りをしていたロマーノにも呆れられてしまったくらいだ。
 メールを出せばいいのだろうが、いまだに英語で打つのが苦手でできることなら電話で済ませたい。
 まぁいいや、シエスタが終わったら電話をしてみようと日本は決めた。
 とにかくさっさと元に戻してもらって、今晩と明日でスペインのうちをもっと堪能するのだ。
 大人に戻ればバルで色々食べられるし、酒も飲める。シェリー酒専門店やワイン専門店という酒しか出さないバルだって行ける。
 観光地でも写真が撮れるし、ちょっと買い物をしようと思っても自分で買えるのだ。
 昨日案内してもらったセゴビアは、壮麗なお城の中も街の景色もさすが世界遺産の街だけあり素晴らしかったが、自分では写真が撮れなかった。その上ロマーノに迷子と誤解させたようなアクシデントがあり、そのせいでなぜかファッションショーと撮影会をする羽目になった。大人に戻ればそんな訳の分からないことは強要されないはずだ。
 ああ、でも明日はイスパニア・デーだから、どこかに観光に行くよりは、マドリードでパレードを見た方が良いのだろうか。なかなか他国の祝日を、プライベートで外から観光する機会はない。パレードはどこであるのだろう。イギリスさん付き合ってくれませんかね。ロマーノ君は嫌がるでしょうか――
 などとつらつらと考えている時だった。
「なんじゃ、寝とるんじゃないんか?」
 と真上から声がかかった。見上げると見知った顔だ。
「……オランダさん」
「爺さんのくせにチビになりおって。それになんや、その格好は」
 呆れた眼差しに、思わず視線を落とす。
 今日の格好はロマーノセレクトの白いワンピースに赤いフードつきケープ。ロマーノ曰く、「今日のコンセプトは赤頭巾ちゃんだ」という服だが、似合っていないのは重々承知である。
 自分でも着る時に、一応、抵抗したのだ。最早抵抗にも飽きて、一応、ではあるのだが。
「いや、これには深いような浅いような訳が……」
 という弁解は、オランダがくだらんと言わんばかりに鳴らした鼻に立ち消える。
「ええと、ところでオランダさんはなぜここに?」
 そういえば玄関のベルの音はしましたっけ? と内心首を傾げる日本だが、
「明日はイスパニア・デーやざ」
 とそっぽを向くオランダに、ああ、と合点がいった。
 オランダと旧宗主国であるスペインは、仲が悪いようでいて要所ではつるんでいる。今回も嫌々な顔をして、祝いに来たのだろう。
「スペインさんは今お仕事で、ロマーノ君なら自分のお部屋でシエスタ中ですよ」
「知っとるわ」
 なるほど、日本の小さくなった姿にも驚いていなかったことからしても、きっとスペインにでも連絡を取って、状況を把握していたのだろう。
 他の人に黙っていて欲しいなぁ、と思うが、オランダはそんなに口が軽い男ではない。それにもうすぐ元に戻れるのだから問題ないだろう。
 そう内心納得した日本の頭を、
「ガキははよ寝ろ」
 とオランダは撫でる。
「眠れんなら、土産のアロマキャンドルたいたる」
 とどこからかキャンドルを取り出し、火をつける。
 ついでにとばかりに、ベルギーのチョコレートを口に押し込まれ、寝る前に甘いものは虫歯になるんですがねぇ、と思いながらももぐもぐと食べてしまう。
 ご丁寧に掛け布団までかけてくれるいつになく甲斐甲斐しいオランダに日本は首を傾げた。
 鎖国中の昔は、「手間のかかる爺さんや」と言って口が悪いながらもあれこれと世話を焼いてくれたのだが、開国してからというもの疎遠になって久しい。
 昨今では世界会議で仕事の話をする程度の付き合いに留まっているのだが、(外見が)子供相手ということで普段は無愛想なオランダもサービス過剰なのかもしれない、と考える。
 頭を撫でられ目を閉じると、すぐに眠気が襲った。
 それは不自然なほど急速に落ちた眠りだったが、意識を失った当の日本は、それに気付くことができなかった。
 
 
 
 
 目が覚めると部屋が真っ暗で、あれ? と日本は首を傾げた。
 寝過ぎたのだろうか。
 でも夕方のおやつの時間には、ロマーノかスペインが起こしてくれるはずだ。それにこんなに暗くなるなんて、一体何時だ?
 少なくとも八時は過ぎているのではないだろうか。
 起こしてもらえなかったのは、何かあったからだろうか、と不安を覚えベッドを滑り降りる。
 足が床に触れた時に違和感を覚えた。大理石張りの床のはずが、なぜかふかふかだ。
 え? なんだこれ?
 混乱しながらドアへ向かうが、身長の足りない日本のために、といつも開けてあるはずのドアが閉まっている。いや、ドア自体がない。
 いやいやいや、ちょっと待ってください。私、スペインさんちの客間で寝ていたはずなんですが?
 別の部屋になってませんか?
 混乱しながら壁伝いに辿り、木の扉を探り当てる。
 背伸びをするがドアノブには手が届かない、というよりも真っ暗でどこにあるのかさえ見えない。
 仕方がなくドンドンとドアを叩くと、ドアの向こうに人の気配がした。
 扉が開くと、一気に眩しい光が押し寄せてきて、明暗の差に目を瞬く。
「おはよう、日本。起きたのか?」
 青い瞳にブルネットの髪、そして口髭を生やした若い男がそこにいた。日本を見下ろすその顔は、満面の笑顔だ。
 その姿に日本は顔を引き攣らせた。
 
 

 
 



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