日本のスペイン旅行記


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「ああ、友達に案内するんはどこがええんかっちゅう話をしとるんや」
 そう応じたスペインに、意を得たりという風に頷いた男は、何やら力説し始めた。
「トレドに行けって言ってんな」
「ロヴィーノ君、分かるんですか?」
「俺んちの言葉と似てるから余裕だ」
「お兄さんも分かるよ。古ラテン口語の変形だもん。まぁ分かっても話すつもりないけど」
 横でひそひそ話している間に、他の客も会話に加わって、賑やかになってくる。トレドは行ったことがある、とスペインが言うと、話が更に広がったようで、色んな地名が飛び交い始める。
「チンチョンなんて見るもんねぇだろ」
「バヤドリードは遠すぎない?」
「遠いんですか?」
「セゴビアの倍行ったところ」
 スペインの腕に抱かれながら、フランスやロマーノの方を向いて話をしていた日本だが、
「そや。これうちの娘、可愛いやろ」
 という言葉に、スペインを見上げる。
 にこにこ笑うスペインに恐る恐る振り向くと、どっと歓声が起き、思わず身を縮めた。
 それを見た男達が、スペインに口々に話しかける。多分、可愛いとか似てないとか、子持ちの親にかける言葉なのだろうが、分からない言葉で話題の中心にされるのは居心地が悪く、勘弁してくれという気分だ。
 男達の一人が、何かを菊に訊ねる。何を聞かれたのか分からずスペインを見上げると、
「名前はなんやって聞かれたんよ」
 と教えられる。助け船が出ないのは自分で挨拶をしろということか。
「 Mucho gusto.(初めまして) Me llamo Kiku.(私の名前は菊です) 」
 ……だったはずだ。挨拶と自己紹介くらいは覚えている。まぁ何十年も前に復習(さら)った知識なので、あやふやなのではあるが。誤魔化す笑みを浮かべながらの言葉は通じたようで、相好を崩した男が近寄って両手を広げた。
 今度はなんだ? こっちに来いと?
「あんな、こっちではベシートいうて、子供は頬にキスの挨拶が普通なんよ。菊ちゃんできる?」
 
――え。……無理です無理です勘弁してください!
 
 他人とのパーソナルスペースが広い日本人には、握手が許容範囲。知らない男の頬にキスするなんて、拷問でしかない。が、ここはスペインのために我慢すべきなのか、そうなのか?
 硬直しきった日本を救ったのは、
「やっぱり無理か。この子、こっち来てまだ二日目で慣れてへんねんよ、おっちゃん、堪忍な〜」
 というスペインの言葉だった。身体を揺すり上げてぽんぽんと肩に頭を凭れさせる動きに、硬直を解き、顔をスペインの肩に埋めさせる。子供のふりで乗り切れ、と内気な子供を演じながらそっと窺うと、図らずも拒絶した形になった男は、周囲から囃されながらも笑っていて、ほっとした。
「あの、こっちの子供は皆キスで挨拶するんですか? その知らない人相手でも……?」
 店を出て訊ねると、スペインはそうやね、と答えた。
「菊ちゃんくらい小さい子供は頬っぺたにキスやって、親が教えるなぁ。大人は知り合いとか友人と頬をくっつける挨拶やけど、そんな構えんでもええんよ。ちなみに男同士では滅多にせぇへん」
「日本でいうお辞儀とか握手とか、そういう感じじゃないの?」
 なにその対人距離、ラテン民族怖い。
「だからお兄さんのこれもベシート! 菊ちゃんはちゃんとほっぺにちゅーで返してね!」
「フランシスさんの髭、気持ち悪いです!」
「こら、うちの娘にセクハラしたらあかん!」
 頬を擦りつけてくるフランスに抗議の声を上げると、スペインが頭を叩いて追い払った。
「痛ッ、今お前本気で叩いただろ。すっかり保護者気分になってないか?」
「当たり前や、俺が守ったる約束したんや。菊ちゃんは俺の娘やんなぁ?」
「ええと、娘というのはちょっと……」
 にっこり同意を求められても、返事をしかねる。
 まずもってして娘というのがいただけない。息子なら再考の余地があるのだが。
 と思いつつも、世話になりっぱなしのスペインに憚り、控えめに異議を申し立ててみると、ショックを受けた顔になった。
「ええー? 俺の娘って言われるの嫌なん?」
「その、親子というのは些か見た目に支障が……」
「そんなことないで。うちは養子多いさかいな。海外からの養子もアメリカんとこの次に多くて、見た目の違う親子もぎょうさんおるよ」
 良い笑顔のスペインに力強く保証される。
 意外な事実に感心するが、問題はそこではない。
 しかしスペインさんにはお世話になっておりますし、それくらい、めくじらを立てるほどのことでもないかもしれません。
 そう日本は自分を納得させた。
 
   

 
 



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