日本のスペイン旅行記


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 帰ってからの試着騒ぎは体力と精神力をすり減らす時間となり、日本は記憶を封印することに決めた。
 些か唯美主義的なフランスはともかく、ロマーノの細部までの拘りに、さすがファッションの国だと嘆息したことだけを覚えておくことにした。
 ファッションショーもどきが良い運動になったのか、スペインの用意してくれたランチをいつもより多く食べることができ、「この時間には起こしてくださいね」と時間を指定して眠ったシエスタも、ちゃんと時間通りに起きることができた。
「まずはメリエンダ(おやつ)で、その後にバルを何軒か廻って、それからタベルナかな思うんやけど、どこ行きたい?」
「俺はいつものボケロネス・エン・ビネグレ(かたくち鰯の酢漬け)を喰いたいぞ」
「俺はやっぱ生ハムだね。イベリコの黒豚がいいけど、どっか良い店ないかな?」
「せやったらロマーノの店からそない離れてないとこに良い店あるから連れてったるわ」
 地下鉄に乗りながら店を算段する彼らの話をぼんやり聞いていた日本は、
「菊ちゃんは何がええ?」
 と話をふられて、眼を瞬かせた。とりあえずチュロスという話が出ていたからには行くだろうと思い、
「……チュロスが食べたいです」
 と答えると、うんうんと頷かれる。
「今から親分オススメのとこ、食べに行こな。他は食べたいものない?」
 他、と言われてもぱっと出てくるものはない。
 生ハムはフランスがリクエストしていたしな、と考え込むが、そういえば最初の日にパエリアの食べ比べという話が出ていたと思い出す。人数も揃っているし、食べたいものではあるが、なんだか期待されている答えとずれている気もする。その戸惑いで疑問系になる。
「……パエリア?」
「あーパエリアかー」
「だったらタベルナじゃなくて、専門店の方がよくねぇか?」
「あ、あの、パエリアに拘らなくても美味しいものなら何でもいいです、はい!」
 ロマーノとフランスの反応に、やっぱり空気読み違えましたか! と焦る。その様子にスペインが笑った。
「ええやん、パエリャ。食べ比べせなあかんって言うとったもんなぁ」
「人数いるしちょうど良いんじゃない?」
「おい、どっかに良い店ねぇのかよ」
「そやね、ソルからちょっと歩くけど、観光客少のうて評判ええ店あるさかい、そこ行こか」
 さくさくと進んでいく展開に、良いのだろうか? とぐるぐるしていると、ロマーノがぬっと顔を出す。
「タパで食いたいのないのか? 料理じゃなくてもこの素材、っていうのでもいいけどよ」
「ええと……」
「日本人の観光客がよう食べるんは、トルティアス、カラマレス、ガンバス・アル・アヒーリョ(海老のニンニクオイル煮)、クロケッタ(クリームコロッケ)、ピミエントス・デ・パドロン(揚げ青唐辛子)ってとこやなぁ」
 ど、どれも食べたい……
 美味しそうです、美味しそうです、名前だけでよだれが出ます!
 しかし、普段の半分量も食べられないとなれば、厳選せねばならぬだろう。うーうー唸りながら、「では海老で」と決めた後も、往生際悪く、うーと小さくうなり声を上げる日本を、
「まぁ、今日食べれんでも、明日食べればええやん。ロヴィーノもおるし、つきおうてくれるはずや」
 とスペインは慰めた。
 
 ソル駅で地下鉄を降り、人でごった返す広場に出る。
 スペインの道路元標が据えられ、マドリードの中心となっているこのプエルタ・デル・ソルは、とにかく人が多すぎて日本は目を丸くした。
「ここはマドリーのへそって呼ばれとるんよ」
 あれが州首相公邸で、あっちに行ったら王宮、こっちはショッピング街でスペイン唯一の百貨店エル・コルテ・イングレスの大きな店舗があって、マドリーの紋章になっている熊と岩梨の像、カルロス三世の像はあそこ、とスペインの肩の高さまで抱き上げられながら、見所を案内してもらう。
「おい、チュロスの店、マヨール近くの親爺の店でいいんだよな?」
 勝手知ったる顔のロマーノは、スペインの返事にさっさと歩き出す。観光客であふれる人混みの中に自国の観光客を見つけたり、店のディスプレイを眺めたり、目を見開いて色々なものを眺めているうちに、目的の店に辿り着いた。
 客がかなり入っている店でテーブルに着くと、すぐ山盛りのチュロスとほっとチョコレートがやってくる。
 少し油分が多いチュロスは、飲み物に浸すと食べやすい。喋りながら食べているとあっという間に山は片付き、「ほな、どの店から行こか?」とスペインが声をかけた。
「はーい! ここはお兄さんのイベリコ豚からでしょ。酔う前に美味しいものは堪能したいよ」
「やったら次に菊ちゃんの海老で、そん次俺の行きたい店行って、最後にロヴィーノの店で一周するんはどうや?」
 異議なし賛成ということで店を出れば、まだまだ外は明るい。
「今何時ですか?」
「そろそろ六時になる頃やね」
 夕食が九時からというこの国では、まだまだ序の口にもならないくらい早い時間なのだろう。
 大きな広場を通り抜け、細い道を迷路のようにぐるぐる歩き、フランスご希望のイベリコ豚の店に着くと、それでも人で溢れている。
 壁際のテーブルを陣取ると、若いウェイターがオーダーを取りに来た。顔見知りなのか、にやりと笑う青年に、すらすらと注文を並べていくスペインは、
「菊ちゃんはモストにしとくで」
 と言って注文を終える。
「モストってなんですか?」
「ワインにする前のブドウを搾った葡萄ジュースのことやけど、バルやと店によってはリンゴジュースになったりするなぁ。グラナダでは、アルコールが弱いワインをモストって呼ぶさかい気ぃつけんとあかんのやけどね」
 なるほど、と頷き、店を見回す。カウンターや柱の傍で立ち飲みをしている人は、皆楽しそうに酒を飲んでいる。BGMがかかっているわけでもないのに、同じテーブルの会話しか聞き取れないくらい賑やかな店内の床にはたくさん紙ナフキンや爪楊枝が落ちていて、ゴミがたくさん落ちている店は繁盛している証だという言葉を思い出した。
 イベリコの黒豚の生ハムに、店を変えて食べた海老のオリーブオイル煮、スペインが選んだ、曰く日本人観光客に人気なのだというマッシュルームの鉄板焼きの店など、どれもとても美味しくて、ワインに合いそうな味だった。日本以外の三人はもちろんワインだ。
 スペインはどの店でも常連なのか、あれもこれもと頼んでないものまでサービスされ、ロマーノが希望していたかたくち鰯の酢漬けは早くも二軒目の店で出されてしまい、もう行かなくて良いんじゃないかと笑いのネタになった。
 
   

 
 



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