日本のスペイン旅行記


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 聖堂の出口左右にある貝殻の水に指を浸し、十字を切るスペインを、日本は珍しく眺めた。
「中の水は聖水なんよ」と説明してくれた彼は、教会に入る前にも、こうして十字を切っていた。周囲を見てみると、皆同様に十字を切っている。自分はしなくていいのだろうか、と思うが、必要ならスペインが言ってくれるだろうと気にしないことにした。どうせ入る時にもしていないので、今更なことであった。
「長い間付き合わせてしもて堪忍な。途中で飽きたんやない?」
「いえ、とても興味深かったです」
『明日の朝はミサに行かなあかんのやけど、付き合ってもらわれへんやろか』と尋ねられた時には二つ返事で快諾した日本である。なにしろ作法が分からない身なれば敷居が高く、そうそう参加できるものではない。ましてや外国の教会、しかも英語ですらない国でのミサなど、一人では恐ろしくて参加できようはずがない。なかなかに面白い体験ができて、長いと言われた時間はあっという間の感覚だった。
「この国の人は、皆さん信心深いのですね」
「そやな。名前からして聖人のもんを使うとるしな。うちでは誕生日は一回だけやないんよ」
 悪戯っぽく笑うスペインに首を傾げる。
「毎日日付ごとに聖人の名前が決まっとってな、自分の洗礼名の聖人の日が来たら、誕生日と同じようにお祝いするんや。基本的に誕生日の聖人の名前をファーストネームに使うて、ミドルネームが洗礼名やな。それに堅信名を追加するもんもおったりするさかい、祝う日が増えたりするんもおるんよ」
「同じ誕生日の人は同じ名前なんですか?」
「基本的にそうつけるんが多いな。そやから、同じ名前がぎょうさんおるよ。多分今ここで、『Hola(よお!)! Antonio(アントーニョ)』って声かけたら、五人くらいは振り返るんちゃうかな」
 そう笑うスペインに、そういえば彼の使うアントーニョという名はこちらでは一番と言って良いほどよく使われている名前なのだと思い出した。
「うちは地方ごとに祝日が違うんやけど、大体聖人にちなんだ祭りやし、生まれたら洗礼受けて、結婚式挙げて、死んだら葬式してもろてな具合に教会の世話になっとるし、人生と切り離せん存在やなぁ」
 うちもお宮参りとか七五三とかありますし、結婚式も葬式もあげますけど……、そういえば結婚式はなんちゃって教会が人気ですし、葬式はお寺さんでですから、かなり適当ですよね。
 海外に出て無宗教というと信仰心も持たない無教養と軽蔑されると聞くから、問われれば「神道」と答えるようにはしているが、実情は神道仏教キリスト教と入り混じり、臨機応変と言えば聞こえが良いが、ようは無節操に好きなものを取り入れる程度の宗教観しか持ち合わせていない。
 自国の民の信仰心が希薄なのは昔からのこと、それで取り立てて困ってもないし、むしろ争いなど起こらず皆ハッピーでいいではないか、とは思うが真摯に信仰を抱いているスペインには呆れられそうな話だ、と些か気まずい心持ちで日本は黙り込んだ。
「どないしたん?」
「いえ、たいしたことじゃないんですけど……」
 言葉を濁せば、言葉を続けるよう示唆しているようにも、答えなくても良いと言っているようにも判断がつきかねる笑みを返される。
 どうにもスペインは解り辛い。鈍いのか、それともあえて鈍くみせているだけで実は敏いのか。
 ともあれ、こうしてこちらの反応に細やかに気を回してくれるのは、それだけ気を遣ってくれているのだろう。そこに悪意は感じられず、気づけばするりと言葉が滑り出ていた。
「うちはこちらと違って、あまり宗教というものに重きを置いていないので、些か驚きました」
「ああ、仏教なのに、クリスマス祝う聞いて驚いたわ」
 あはは、と笑うスペインに、
「うちだけじゃなくて、アジアは皆そんな感じですけどね」
 と些か弁解じみた言い訳をする。
「まぁ、ええやん。うちはうち、よそはよそやん。菊ちゃんとこがそれでうまくいっとるんなら、それでええんやないの」
「そうですよね」
「さてと、さすがにお腹空いたわ〜」
 大きく伸びをして話を変えたスペインに、そういえばと空腹を思い出した。ミサの前は食事を摂らないとかで、朝ご飯は抜きだったのだ。
 時刻はそろそろ十一時、この国ではおやつの時間である。
「うち帰るまでに絶対お腹もたへんわ。近くの店で食べて帰るんでええ?」
「いいですけど、私は軽くにしときます。……だって、お昼ご飯とその後にもおやつとバルと、それから晩ご飯なんですよね? 今お腹いっぱい食べたら、絶対昨日の二の舞ですから」
 昨日は結局おやつにお昼にとお腹いっぱい食べ過ぎた後に昼寝をしてしまったら、思いがけず寝過ぎてしまい、さすがにそろそろ起きた方がいいのでは、と起こされたら夜の七時をまわっていたのだった。
 寝起きのせいか、先に食べ過ぎていたせいか、起きてもまったくお腹が空いておらず、ついでに時差ぼけの影響もあってなのか、ぼーっとしてしまい、バルへは結局行けずじまいだった。
 酒は飲めなくてもつまみは食べられるというからには、ぜひとも今夜はリベンジしなければ、と日本は決意を固める。
「やったら、チュロス食べればええよ」
「チュロス、ですか?」
「せや。食べたことない? 小麦粉練って揚げたもんやけど、ないなら絶対食べとかんとあかんなぁ。気に入ったら、夕方に美味しい店も連れてったるわ」
 熱々のチョコラーテと一緒に食べたら美味しいんよ、という言葉にわくわくする。こちらは昼間は少し暑いくらいだが、夜になると急に冷え込む。ホットチョコレートはぴったりだろう。
 そんなことを考えながら歩いていた日本は、前方に見知った顔を見つけ、思わず足を止めた。
 
   

 
 



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