日本のスペイン旅行記


  10

 
 
 
「さてと、ゴヤはまぁそっちでも見れるとして、あんまそっちに行かなさそうなもの見よか。なにがええやろなぁ」
 黙り込んでしまった日本を気遣ってか、スペインは明るい声を上げた。それに物思いを振り払った日本は、同調してみせる。
「うーん、宗教画の類ですかね」
 聖書の場面を描いた宗教画は、そもからしてキリスト教の素地がない日本人には馴染がない。こちらでは常識のような題材でも理解する人が少なく、見ても面白くないためか人気があまりない。
 西洋絵画と言えば、日本では純粋に絵の美しさや緻密さ、構図の素晴らしさを楽しめる画家が喜ばれる傾向にあった。
 日本自身も勿論その一人だが、折角格好のガイドであるスペインが案内してくれるというのであれば、この折りに造詣を深めるに越したことはない。
「やったら順にムリーリョ見て、エル・グレコ、宗教画やないけどベラスケス見てから、下のボッシュ辺り見よか? そこ出た辺にルーベンスも揃っとるからついでに見ていけばええわ」
 勧めに頷き、来た道をゆっくりと絵を眺めながら帰る。ギリシャローマ神話の女神達を肉感的に、それでいて優雅に描いたルーベンスを通り過ぎ、ムリーリョをはじめとする旧約新約入り混じった聖書を題材とした宗教画を見ていくうちに、日本はふと気がついた。
「アントーニョさん、私、実に不謹慎で芸術に対する冒涜ということは重々承知なんですが……」
「なに? どうしたん?」
 他国よりもよほど信心深く、カトリックの影響を端々に感じるこの国の化身であるスペインに、こんなことを言って良いものか悩みつつも、どうにも我慢できずに日本は口を開いた。
「この宗教画って、同じ題材をテーマに描かれている物が多いですよね?」
「せやね。好まれる題材はあるなぁ」
 受胎告知に幼子イエスと聖母マリア、磔刑に処されたイエス、そしてイエスの昇天。画家は入り混じりながらも、主要なテーマで描かれた作品が多い。
「乱暴な言い方をすれば、聖書という一つの作品の、特定の場面を様々な画家が描いているということですよね?」
「せや」
 それがどうしたのだ、と視線で問うスペインに恐る恐る日本は口を開いた。
「つまりは聖書という作品のパロディで、一種の同人誌のようなものに思えてならないのですが」
 いや本ではないから、同人誌というのはおかしいよな、と思いつつ、日本に遊びに来た時に、聖闘士☆矢やセーラー月、カエル軍曹の同人誌を読んで爆笑していたスペインに分かりやすいのは同人誌という言葉だよな、と判断してそう告げれば、一瞬呆気にとられた顔をしたスペインは、次の瞬間プッと吹き出した。
「そう言われて見れば、そやな! すごい発想やけど、その通りやん!」
 怒られなかったことにほっとしつつも、なんだかとても冒涜的な発想なのではないかとひやひやする。
 いや、普段読んでいる同人誌が萌に特化したパロディや、己の欲望に忠実である創作系だったりするから後ろめたいのであって、同人誌の中には学術を極めたものもあれば、真剣に技術の向上を目指す真摯なものもあるのだから、必ずしも悪い意味合いではないのだが、と内心で葛藤しながらも、どうすればいいのか分からない時には頭を下げるのが習いの性。とりあえず謝ってみる。
「すみません、変なことを言って……」
「いや、間違ってないと思うで。まぁ宗教画は教会やら貴族やらが好きな画家に頼んで描かせたから、画家にとってはビジネスの意味合いが強かったんやけどね。でも好きで描いとったんもおるしなぁ。そういうのは愛で描いたゆう意味で、同人誌と似とるかもしれんな」
 なるほど、あながち萌滾った同人とかけ離れたわけではないものもあるらしい。
 しかし好きな画家に絵を頼めるとは羨ましいことだ。
 金持ちになれたら好きな絵師や作家のパトロンになって、彼らが仕事に当てている時間を創作に費やしてもらうのに、という同人界の笑い話を聞いたことがあるが、それを地で行っていたということか。
「でもやっぱ宗教画の方が売れるから描いたんはあったやろな。昔は庶民が字ぃ読めへんのが当たり前やったし、聖書自体ラテン語やったからね。教えを分からせるために、教会に場面の絵を見せて説教してたんや」
 だから分かりやすい同じモチーフの作品が生れたのだとスペインは説明する。
「それに絵を頼む金も教会が一番たくさん持っとったしな。ああ、エル・グレコなんかその口やな」
 エル・グレコの後に、ベラスケスの数々の傑作をスペインが語る過去の王族の逸話を聞きながら鑑賞し、一階に下りてボッシュを見た。
 広い画面一杯に細々と人物や奇怪な動植物を描いているボッシュの作は、フィリペ二世が蒐集したものだという。フィリペ二世だけでなく、この美術館の所有する作品の多くは王室が買い付けたものらしい。
「やからうちの絵が中心なんや。まぁ、そんな散財しとったさかい、貧乏になったんちゃうかいう話もあるけどな」
「後世のためになっているので、金には換えられない宝だと思いますよ」
「そう言ってくれるんは嬉しいわ」
 通路を抜けて売店やカフェテリアのある建物に入ると、時刻は二時近くになっていた。
「ええ時間やな。ここでランチ食べて帰る?」
「オススメなんですか?」
「ははは、まぁ美術館の軽食やね。好きなもん選んで会計してもらうシステムや。それが嫌なら、途中の店に寄るか、家で作るかやな」
 どうやら特に美味しいというわけではなさそうだ。
 それなら後者二つのどちらかがよい、と思った日本は、ふと昨夜の料理を思い出す。
「昨日の残りはまだありますか?」
「あるよ。でも同じものになるけどええん?」
「美味しかったのでぜひ」
 昨夜は気が昂ぶっていて、何を食べたかあまり記憶に残っていないが、美味しいと感じたのは覚えている。
「それでええなら話早いけどな」
 歩いたせいで少し空腹は感じているが、多分さほど量は食べられないのなら残り物で充分だ。でも、スペインはそれで足りるのだろうか。
「あの、アントーニョさんはそれでいいですか? 私はきっと少ししか食べられないので、昨日と同じが良いと言ってしまったのですが……」
「なに? 親分のこと心配してくれとるん? 菊ちゃん、優しいなぁ」
 いきなり頭をかいぐり撫でられて、思ってもみない反応に眼を白黒させる。
「いえ、あの、それこそ同じメニューになりますし、もしかして量が足りないとか…そういう心配がないかと思いまして……」
 しどろもどろにそう返せば、面白いものを見るかのようにじっと顔を見詰めてきたスペインは、破顔一笑した。
「残しとっても食べる人おらへんし、一緒に食べて貰えれば嬉しいわ。足りんことないと思うけど、なんや作ってもええし、近くでちょこっと買うてもええしな。そうと決まればはよ帰ろうか」
 今のはなんだったのだろう。なんとなく反応を観察されていたように感じるのは気のせいか。鼻唄を歌いながら長いコンパスですたすたと歩いていくスペインに抱かれながら、日本は内心で首を傾げた。
   

 
 



back + Home + next