平行世界 5



 カーキ色の軍服。薄暗い部屋にも、金色の髪が眩しい。
 さきほどの驚いた表情を改めたこの世界のアーサーは、おずおずと入った菊をじっと見守っていた。
 探るような碧の瞳は、初めての者を見るものではない。
 目の前の彼が初日に迷いこんだ世界で会った時の男であることは、確かめなくても伝わった。
「……お前は誰だ」
「本田、菊です」
 なんと声をかければよいだろうか、という菊の逡巡は彼の直截な問いで霧散する。
 だが、続けられた質問には眼を瞬かせた。
「お前は妖精か?」
「……いえ、人間ですけど」
「そうだよな、妖精ならあいつらに見えるはずがない」
 冗談を言っている口調ではない。とすると、この世界は妖精が当たり前のものとして存在するのだろう。
 確かに異世界なのだから、自分のいた世界と違うのは当然。妖精だけではなく、もしかすると魔法だって身近なものかもしれない。アニメやジュブナイル小説では腐るほどある剣と魔法の世界、いや、この世界のアーサー・カークランドの服装からすれば、魔法と科学技術が融合している類というのもありえる。
 この部屋も、前回の部屋も、なんとも前時代的な重厚な作りだから、ジャンルとしてはゴシックファンタジーというやつか。(そんなジャンル分類があるかどうか知らないが、言葉のイメージだ)
 楽しい想像に、菊らしくもなく、好奇心が気後れに先立った。
「あの、アーサー・カークランドさん、ですよね?」
「……ああ」
「あなたの知り合いで私と同じ顔をした人がいませんか? もしかしたら名前が一緒の」
「……いる」
 少し眉を顰めたその表情は、こっそり眼で追いかけているいつもの不機嫌そうなアーサー会長とそっくりで、そのことになんだかほっとする。
「ああ、やっぱり。私の知り合いにもあなたと同じ顔をした、アーサー・カークランドさんという人がいるんです」
「どういうことだ?」
 もしやこちらの世界にはパラレルワールドという概念がないのだろうか。
 怪訝な表情を浮かべるアーサーに、できるだけ平易な言葉で説明をする。
 自分では理解しているつもりでも、結局冷や汗をかきながらのつっかえつっかえになった説明に、アーサーは真剣な顔で耳を傾け、訊ねた。
「お前の所のアーサー・カークランドとは……その…友達なのか?」
「まさか」
 その瞬間、さっと失意に似た表情が秀麗な顔に過ぎる。
 それはすぐにかき消され、元の表情が読めない顔に変わったが、その一瞬を眼にした菊は、慌てて言葉を続けた。
「ええと、私の世界のアーサー・カークランドさんはすごく偉い生徒会長で、私はただの一学生なんです。授業によっては一緒のクラスになるんですが、私は目立たない生徒なので、私の世界のアーサーさんは私の名前すら覚えておられないと思いますよ」
「学生……」
 頭からから足下まで何度も視線を往復させるアーサーに、ああ、この人きっと自分のことを中学生くらいに思っているのだろうな、と菊は内心溜息を吐いた。
 自分では平均的な日本人の容貌だと思っているのだが、今まで実年齢通りに見られたことがない。日本に住んでいるのに、周囲が日本人社会ではないのも一因だろうと諦めつつもあるが、ともあれここで高校生ですから、と主張してみても、学校制度が同じとは思えないこの世界のアーサーに伝わるはずもないだろう。
 いや、そもからして国が違えば学制など異なるわけで……などと思考を枝末に漂わせていた菊だが、
「ということはまだ10代か?」
 という言葉に驚いた。
 アーサーの口調では、常とは逆に年上だと見積もっていたように聞こえる。
「はい。あの……」
 何歳に見えますか? と訊ねようとしたすんでの所で、馴れ馴れしすぎるかと、口を噤んだ。
「どうした?」
「……なんでもないです」
 曖昧に微笑んで首を振れば、アーサーは不愉快そうに眉を顰め、ひやりとした。
 日本人的曖昧な笑みを好まない外国人は多い。彼もその口だろうか。
 だが、アーサーはすぐに表情を改めた。
「そこに掛けると良い」
 指し示された目の前の長椅子に戸惑い、顔を見つめると、
「お茶を淹れよう」
 と彼は立ち上がった。
「ありがとうございます。でもどうぞお構いなく」
「俺が飲みたいんだ」
「では……お言葉に甘えさせていただきます」
 勧められるがままに椅子に腰掛け、隣の部屋へ消えるアーサーの後ろ姿を見送った菊は、ぐるりと部屋を見回した。
 壁一面に設えられている本棚に、重厚な書斎机。
 ドアからは死角になっていた大理石のマントルピースは使われている形跡がある。
 絹張の長椅子と恐らくマホガニーのテーブルの応接セットも、絨毯も緞帳のようなカーテンもどれも目が眩むような高価なものに違いない。それを判断する程度の知識なら、散々王家で骨董の類を眼にしているせいで持っている。
 こんな部屋を使っているからには、この世界のアーサーは裕福なのだろう。

『イギリス』と、あの時彼は呼ばれていた。
 イギリス、フランス、中国、ロシア、日本。
 アーサー会長は英国人、フランシスはフランス人、兄の耀は中国人、そして日本とこの世界で呼ばれた自分は日本人。
 美国という耳慣れない単語を兄に訊ねると、アメリカのことだと返ってきた。その後、マシューにさりげなく訊ねたアルフレッドの国籍もアメリカだった。
 ロシアと呼ばれていた男とは自分の世界では会ったことがないが、もし学園に在籍しているのならばロシア人なのだろう。
 あの日の恐怖が薄れてから、ずっと菊は考えていた。
 この世界の彼らは国籍に対応して、国名で相手を呼んでいた。
 スパイや同盟、裏切りなどという日常生活では耳にすることのない物騒な言葉。それに服装からして、彼らはきっとそれぞれの国家に属する存在なのだろう。
 外交官か諜報員か。
 菊の頭ではその程度の想像しかできない。
 彼らにとって自分は敵陣に属する者で、でもある程度は深い付き合いがあるようだ。それはこちらの世界の耀を兄と呼んだ時の喜びようや、アーサーの態度から分かる。
 こちらの世界のアーサーは、自分がこの世界の自分とは別人だと分かってくれているようだが、それでも言動には充分気をつけなければならない。
 なにしろこちらの世界の自分は、彼らにとって敵のようなのだから。
 それにしては、菊を迎え入れたアーサーの表情には、敵意は感じられなかった。
 さきほどのアーサーの態度を思い出し、菊は不思議な気分になる。
 この世界の自分にとっては敵陣にいるというのに、恐ろしさを微塵も感じないのは敵に対するにしては友好的過ぎるアーサーの態度のために違いなかった。
 きっとここはこの世界の英国なのだろう。少なくともこの薄寒い乾いた空気と窓から見える広大な庭は、今までいた東京近郊のものではない。
 本棚に並んでいる書物がアルファベットということからしても、きっと言語文化は自分の世界と同じであるはずだ。
 言語文化、という発想で、ふと言葉が通じている不思議にも気づく。H学園では授業によっては英語を使うこともあるが、共用語は日本語なので、自然、今の会話で菊が使っていたのも日本語だった。学園内ならともかく、イギリス人と思われるアーサーが英国で日本語を使っているはずはないだろう。それでも会話が通じているのは、違う世界からきたからなのだろうか。
 そうだとすれば随分と便利だな、と思う。
 自分の世界でもこんなに簡単に言葉が通じるのならば、あの訳の分らない英語やフランス語など勉強しなくて済むのに。
 溜息を吐きかけた菊は、はっ、とフランシスとの約束を思い出した。
 慌てて腕時計に眼をやると、秒針が止っている。
「あれ? 壊れた……」
 わけではないのだ、とすぐに思い当たった。
 兄から誕生日プレゼントとしてこの時計をもらって、まだ半年も経っていない。
 正確な時を刻むはずのMR-Gが指しているのは、つい数分前の時刻。恐らくこの部屋に入った時間なのだろう。
 この世界では、時計は止ってしまうのか。
 しかし自分の世界に帰るのが止った時間と同時ならよいのだが、ここに居る時間も自分の世界で経過しているとなるとフランシスを待たせることになる。
 あまり長く待たせると、兄にまで連絡が行って問題になってしまうかもしれない。
 じわりとこみあげる焦燥感に耐えきれず、菊は立ち上がった。
 さっきはダメだったが、時間が経った今なら、このドアは自分の世界に通じているかもしれない。
 ドアノブに手をかけた菊は、扉を開けようとして――
「――どこへ行く気だ」
 うっすらと怒気を孕む低い声に慌てて振り向くと、アーサーの姿があった。
「ごめんなさい! ええと、その、さっきこのドアを開けたらここに出たので、このドアから自分の世界に帰れるのかなと思いまして……」
 冷ややかな眼差しに釈明しながら開きかけたドアの隙間から覗き込むと、そこから見えるのはやはりどこまでも続く廊下で、菊はがっくりと肩を落とした。
「紅茶がはいるから座れ」
 慣れた手つきでアーサーがテーブルに並べるのは、予想を裏切らぬ繊細な陶磁器と銀のティーセットだ。
 菊がカップを手に取るのを待つ様子に、慌てて礼を言うと、琥珀を一口含んだ。
 お茶に一家言ある兄のせいで、美味しい紅茶を飲みつけている菊を満足させる深みのある爽やかな味だった。
「……美味しいです」
 知らず口をついた感想に、目の前の彼は満足そうな表情を浮かべる。
 だが何を言うでもなくじっと見詰めてくるアーサーに、沈黙が居たたまれなくて、菊は必死に話題を探した。いつもは饒舌な兄や周囲に押されて聞く一方だから、自分で話を探すのは不得手だ。
 自分の居た世界に似ているようで、どこか違うこの世界について、聞きたいことはたくさんある。
 だが、アーサーに警戒されるようなことは、避けた方がいいだろう。
 考えた末、菊はさきほど気にかかっていたことを思い出した。
「あの…さっき私のことを妖精かって聞かれましたが、ここには妖精がいるんですか?」
「ああ、お前の世界には妖精はいないのか?」
「いません。お伽話の中には勿論いますけど、私は見たことがありません。その妖精、私にも見えるでしょうか?」
「どうだろうな。今この部屋にはいない。この時間なら庭にならいるかもしれないが」
 ちら、とアーサーは窓に視線を向ける。
 外にいるのだろうか、だったらぜひ見られるか試してみたい。
 そう考えた菊の顔色を読んだのか。
「外へは出るな」
「え?」
 眉を寄せ、きっぱりと告げるアーサーの強い言葉に驚く。
「この国は現在戦争下にある。見知らぬ者に対する警戒心も強い。……お前の容貌は…外に出たら目立ちすぎる」
「戦争……」
 やはり、という納得と、まさか本当に、という暗澹たる気持ちが入り混じった。
 明言はしないものの、敵である自分がこの場所に居ることを周囲に知られたら困るということなのだろう。
 重苦しい気分を振り払わんと、菊はわざと無邪気な問いかけをした。
「ええと、戦争というと妖精がということなんでしょうか?」
 少し眼を瞠ったアーサーは、ふっと微笑む。
 それは『どうして空は青いのですか?』と子供の頃に尋ねた時に、父が向けた慈しむような眼差しに似たもので、美しい碧の瞳に浮かぶ優しい色に、心臓の深い所が甘い感触で跳ねた。
 だが、すぐにその笑みをかき消したアーサーは目を伏せ呟く。
「妖精は戦争などしない。戦争をするのは人と……国だけだ」
 彼のその言葉の本当の意味を、その時の菊はまだ知らなかった。



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