平行世界 6



 眼を瞑って扉を開け、中に入る。ひんやり乾いた空気に少し頬が緩んだ。
 背中で扉を閉め、そろそろと眼を開けると、予想通り。
「――こんにちは、アーサーさん」
 広い部屋の奥で、驚いた顔をしているのはアーサーだった。
「ノックくらいしないとびっくりするだろうが」
「ごめんなさい」
 開口一番、不機嫌そうな顔で文句を言われるが、別に怒っているわけではないことは立ち上がって迎えてくれる様子からも分る。
 一応ノックをしてこの扉を開けたはずなのだが、どうやらこの部屋には聞こえていないようだった。
 とはいえ、相手に届かず礼を逸しているのは事実だから、菊は素直に頭を下げた。
 そんな彼を庇ったのは、そよ風のように儚い鈴のような声音だ。
『キクはわるくないわ わたしたちにはきこえたもの』
『イギリスは てれてるだけなの』
『キクがきてくれて うれしいのを すなおにいえないだけなの』
『ずっとずっとキクにあいたかったのよ』
 ふわふわと宙を舞うのは透明な羽を持った妖精達で、歓迎するように菊を取り囲む。きらきらと光の粉を放つ姿は、アニメや小説に出てくる妖精の姿そのままに幼い少女のような形をとっていて、その愛らしい様子に自然と笑顔になる。
 だが、アーサーは口々に訴える彼女たちを煩げに手で追い払った。
「お前ら煩いんだよ! 余計なことしゃべるな!」
『だってイギリス、あいたいっていってたじゃない』
『キクにあいたいって……』
『だからわたしたちキクに……』
「もういいから、消えろ!」
『キャー』と歓声のような悲鳴を上げながら一瞬にしてぱっと消えるが、姿を消した後も、クスクスと鈴音のような笑い声だけが微かに聞こえてくる。その声も、アーサーの一喝でぴたりと止った。
「あの、ええと、アーサーさん……」
 彼女たちは気を悪くしていないだろうか、と菊はおろおろするが、アーサーは慣れているのか「まったくあいつ等は……」と不機嫌な様子を隠さない。
 しかしすぐに立ち竦む菊に気づいた彼は表情を改め、席を勧める。
「座れ。今紅茶を淹れる」
「あ、ありがとうございます」
 怒ったような顔を和らげ、菊に向ける表情は穏やかだ。
 それにほっと胸を撫で下ろした。
 一人残された部屋を、ぐるりと見回す。
「……妖精さん」
 小声でそっと呼んでみるが、さきほどのアーサーの剣幕のせいか、気配がない。
 彼のいない間に聞きたいことがあったのに、と菊は少しがっかりした。
 この部屋に訪れるのはこれで四度目。もうこの部屋もそろそろ見慣れた場所となっている。
 初めてこの部屋に迷い込んだ時、『帰れないと困るのです』と青くなる菊に、それならばとアーサーが呼び寄せたのが妖精達だった。
 アーサーが不思議な言葉を呟くと、部屋の中に馬が、しかも角の生えた馬が出現したのだった。そればかりではなく小人や、なんとも表現しがたい奇妙な生き物やそれに妖精、不意に現れたそんな本の中の想像上の生き物たちを目の当たりにして、菊は息が止るほど驚いた。だがアーサーは慣れた様子で、彼らに帰り道を尋ねはじめたのだった。
『あの、アーサーさん……こ、この方達は一体?!』
 物珍しげに菊の髪に触れる妖精に、ズボンの裾を引っぱる小人、にやにやと菊を見ながら仲間に耳打ちする小男。遠慮会釈ない彼らの行動に、菊が顔を引き攣らせながら訊ねると、アーサーは驚いたように眼を瞠った。
『こいつらが見えるのか?!』 
『ええ、この光ってる妖精さんとか、ユニコーンとか……見えます』
 指を指すわけにもいかず、迷った菊がふわふわと宙に浮く妖精を手のひらに乗せるような形で示せば、一瞬奇妙な表情をしたアーサーは満面の笑みを浮かべた。
 初めて見た手放しのその笑顔に、ぽかんと惚けた菊だったが、自分たちを認識する人間に喜んだ妖精達に取り囲まれ、すぐに情けない声を上げる羽目となった。
 本物の動物ですら番犬くらいしか免疫がないのに、生身と見紛うほどリアルな想像上の生き物に近寄られると悲鳴も凍る。睥睨しながら鼻面を寄せるユニコーンに食われるのではないかという恐怖を感じるが、しゃがみこんで注意を引くためにか奇妙な声を上げながら足を叩く小人と顔を合わせるのも怖ろしく、真っ青になって硬直する菊の腕を掴んだのは、力強い大きな手だった。
『お前ら離れろ!』
 ぐっと引寄せられて、反射的に目の前の躰に縋り付く。この腕なら安心だ、と思ったのは一瞬のことで、後はただただ震えてしがみつくだけだった。
『あー……菊、とりあえずあいつらは帰したから大丈夫だぞ』
 やがて困ったような声と髪をそろりと撫でる感触に顔を上げれば、心配そうに覗き込む碧と眼が合って、自分の子供じみた行動に気がついた菊は穴があったら入りたい羞恥に襲われた。
 恥ずかしさに俯き、顔を上げることもできない菊を元の世界に導いてくれたのは、唯一部屋に残った小さな妖精達だった。
『いつでもこのみちをとおったらかえれるわ』
『にほんならいつでもとおしてあげる』
 部屋を出る前に囁かれた言葉が真実だと分ったのは、その三日後、意を決してもう一度あの扉を開けた時だ。
 前回と同じように眼を丸くしてガタリと椅子を鳴らして立ち上がったアーサーに、『この間はちゃんとお礼も言わずに失礼してしまったので』と恥ずかしさを堪えながら菊が礼を言うと、『そんなことは気にしてない』と怒ったような顔をした彼は、また紅茶を淹れてくれたのだった。
 二杯目のお茶を飲み終える頃には、アーサーには三人の兄と弟が一人いることや、趣味は薔薇を育てることで魔法も使えることを知り、菊も両親が亡き後知人の家に引き取られ、血の繋がらない兄と弟妹達がいることを彼に語っていた。
 一度妖精達に怯えるようなみっともない所を見られてしまったせいで気安さを感じるのだろうか。たまに落ちる沈黙すらも心地よく、帰り際に菊は『また来てもいいですか?』と口にしていた。
『来たければ別に来てもいいぞ』
 返ってきたのはそんなぶっきらぼうな言葉で、もしかして歓迎されていないのだろうかと、さっと心に翳りが落ちたが、それに気づいてか気づかないでか、『今度は薔薇を見せてやる』と彼は付け加えた。
 その言葉通り、次の訪ないの時には部屋に美しい薔薇が何鉢も用意されていた。
 恐らくこの世界のアーサーも、こうして会うのを楽しみにしてくれているのだと思う。
 けれども彼は、菊が一番知りたいことには触れて欲しくないようだ。
 最初に菊のことを『日本』と呼んだ妖精達が、次に会った時には『キク』と呼ぶようになっていたのは、多分『イギリス』と呼ばれているこの世界のアーサーが、そう呼ぶよう教えたからなのだろう。
 菊と同じ顔をしたこちらの世界の『日本』について、最初の邂逅以来、彼は口にしていない。
 菊が自分の世界のアーサーについて水を向けても、けしてこの世界の『日本』や、最初に会った『フランス』や『アメリカ』について語らないのは、彼らについて触れて欲しくないからに違いない。
 この世界の菊にあたる『日本』という人物が彼の敵となっているのだとすれば、それは当然のことだろう。菊とて不用意にその話題を持ち出して、折角のアーサーとの穏やかな時間を壊したくはない。けれども、この世界の自分がどんな人間で、アーサーとはどんな関係で、なぜ彼と敵対することになっているのか知りたかった。だからアーサーがいない間に、『日本』について知っているであろう妖精達に話を聞いてみたかったのだ。
「妖精さん……いませんか…?」
 彼女達の姿はアーサーが一緒でなければ見ることができないのだろうか。
 そこらを飛んでいないかと、きょろきょろ部屋を見廻す菊は、マントルピースに火が入っているのに気がついた。
 耳を欹てれば、パチパチッと微かに薪が爆ぜる音も聞こえる。
 本物の暖炉で暖をとるなんて、本当に外国なんだと感心しているうちに、アーサーが戻ってきた。
「スコーン、食べるか? クッキーの方が良いか? ……お、俺が作ったんじゃなくてうちの料理人が作ったものだぞ」
 少し顔を紅潮させながら照れくさそうに言うアーサーに、菊は眼を瞬かせた。
「アーサーさん、お料理されるんですか?」
「まぁ一応……今は忙しくてできないが」
「お忙しいんですか?」
 忙しいのに邪魔をして悪かっただろうか。そんな菊の心が分ったのか、アーサーは早口で弁解した。
「忙しいのは忙しいが、別にお前が気にすることじゃない。ずっと仕事をしてたら休みも必要だ」
 紅茶を注ぎながら、どうすると視線で訊ねる彼に、「ではお言葉に甘えてスコーンをお願いして良いですか?」と告げれば、既に用意してあったのだろう。ジャムとクリームが添えられたスコーンの皿を運んできた。
 初めて食べるもそもそした食感はあまり美味しいものではなかったが、さりげなく視線を向けるアーサーが心配そうに窺っているのが分かり、菊は笑顔を向けた。
「このクリーム、スコーンによく合ってとっても美味しいです」
「クロテッドクリームというんだ。ジャムも一緒に塗るといい」
 こくりと頷いて、教えられた通りジャムをつけると味が格段に美味しくなり、自然菊は笑みを浮かべた。
 嬉しそうな表情でそれを見守るアーサーは、咳払いを一つして改まった声を出した。
「その……元気だったか?」
「はい。アーサーさんはお元気でしたか?」
「ああ、変わりない」
「よかったです」
 毎回こうして形式張った挨拶と笑顔を交わし、それからぐっと砕けた雰囲気になるこの瞬間が好きだなぁと菊は思う。
「学校はどうだ?」
「まぁ……それなりに……です」
 嫌なことを思い出して口が重たくなると、アーサーは心配そうな顔でティーカップを置いた。
「何かあったのか?」
「いえ、特になにかあったわけではないのですが……」
 今日もまた授業を止めてしまっただけのことだ。
「学校が…向いていないのかもしれません」
 情けなくて悄然と肩を落とせば、どういうことだ、と案じる眼差しで促される。それでつい、色んな国から学生が集まった学園で自分が浮いていること、授業でも自分の意見が上手く言えないこと、それで迷惑をかけていること、皆助け舟を出してくれるけどきっと内心呆れられているだろう、とそんな愚痴をぼそぼそと洩らしてしまった。
「皆、すごく大人っぽくて背だって高くて堂々としてて、だけど私は……その…女の子より小さいですし、頑張らなくちゃと思ってもちゃんと意見一つ言えないですし……。皆さんすごく親切なんです。でも素直に受け入れられない自分が不甲斐なくて……」
 言いながら、こんな子供じみたくだらない愚痴を漏らすこと自体が恥ずかしいことだと気づき、気分が情けなくもささくれだちもする。
「……夢のようだな」
 闇雲に恥ずかしくなって言い終わった後、顔が上げられなくなった菊は、アーサーの小さな呟きが上手く聞き取れず、
「本当に悪夢です」
 と反射的に返した。だが、沈黙にそろりと視線を上げ、自分に向けられている子供を見守る保護者のような静謐の眼差しに急に恥ずかしくなった。
 魔法が使えて、誰もが羨むような容姿を持ち、きっとかなり高い社会的地位にあるfであろう彼に聞かせるような話ではなかった。
「あの、ごめんなさい。こんなくだらない愚痴を聞かせてしまって……」
 きっと馬鹿な子供だと思われた。どうして余計なことをべらべらと喋ってしまったのだろう。
 情けなさに泣きそうになって俯いていると、アーサーが立ち上がって傍に来る気配がした。
「他のヤツらにはくだらないことに思えても、お前は本気で悩んでるんだろう。だったらくだらないことじゃない」
 膝を折り、子供に語りかけるように下から顔を覗き込むアーサーは、そっと菊の髪を撫でる。
「……努力だけで物事が上手くいくなら世界はもっと簡単だろうな」
 自嘲めいたその言葉の響きにはっとする。

(アーサーさんでもそんなことを思うのだろうか)

 全てに恵まれているように見える彼でも、努力しても叶わない何かに抗い藻掻くことがあるとでもいうのか。
 驚き顔を上げた菊に、アーサーは尋ねた。
「友達は……いないのか?」
「……クラスメートにマシューさんっていう人がいて、とっても親切にしてくれるんです」
「マシュー……」
 フランシスの名前は出さない方がいいのだろうかと思い、とっさに口にした名前だったが、眉を寄せて小さく繰返すアーサーの姿に内心ドキリとする。
 だがすぐにその表情は和らいだ。
「俺はお前が礼儀正しくて、努力をしてることを知っている。マシューってヤツもそれが分かってるからお前と友達になったんだろう。お前がお前である限り、お前の良さを分かるヤツは絶対まだまだいるから焦るな」
 ぽんぽんと頭を叩かれて頷く。

(それは私の世界のアーサーさんのことだろうか)

 聞きたくて、でも聞いてはいけないような気がして、菊は言葉を飲み込む。
 立ち上がるついでのようにそっと髪に落とされたキスは優しい感触で、少しだけ菊の心を浮上させた。



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