平行世界 4



 『溜息を吐くと幸せが逃げる』と兄は言うが、これで何個目の幸せを逃したことだろう。
 ぼんやり考えながら、菊はまた一つ溜息を吐いた。
 学校が辛い。
 本当に辛い。
 授業の内容にはついていけるし小テストなどでは満点を取ることができるが、授業自体にはいまだに慣れない。求められる知識を呈示することは辛うじてできるが、「ではそれに対する君の意見は?」と聞かれると固まってしまう。それで何度授業を止めたことか。クラスメート達の助け船で授業自体は進んだが、確実にマイナスをつけられているはずだ。
 
 クラスメート達は皆親切だ。
 陰気な顔をした引きこもり上がりにこまめに明るく声をかけてくれるし、困っていれば手助けやアドバイスをしてくれる。
 だが、彼らの親切は"不慣れなクラスメート"に対する儀礼的なもので"本田菊"という人間に対してのものではないことに、すぐに菊は気がついた。
 普段の言動も生活面での評価に関わり、それが総合成績に反映されるのだと知れば、そんな親切にどう応えればいいのか分からなくなり、己の対応のぎこちなさが菊の神経を更に疲弊させた。
 日本にある学校だというのにアジア系の学生が殆どいないこの学校で、菊の存在は浮いている。
 ひょろひょろと不格好に細い躰に低い身長。女子でも菊より背が低い人がいるかどうか。
 顔立ちも日本人の中でも一際幼いという自覚もあれば、180センチに近い長身揃いで大人のような顔つきのクラスメート達に混じるなど気後れがする。
 これで運動でもできれば、少しは自信もつくのだろう。だが生まれてこの方体育の授業など受けたことがなく、病気がちだったのをいいことに走ることすらなかったもやしっ子だ。運動などからきし駄目で、昨日などサッカーの試合に引っ張り出され、フィールドに突っ立っていただけで眩暈を起こし倒れたていたらくだった。
 それでいてペーパ試験の成績だけはいいのだから、普通なら馬鹿にされ苛められる王道パターンだ。
 菊だってそんなクラスメートがいれば内心呆れると思う。
 だがクラスメートたちは皆親切で、かけられる言葉は体調を気遣うものばかりだった。
 だがそれが社交辞令的なものだと気づいてしまえば、困惑と自己嫌悪とに拍車がかかる。
 
 勿論、個人的に親切にしてくれる人たちもいる。
 クラスメイトのマシューは、いつも控えめな笑みで多くを語ることなく傍にいてくれるし、それはマシューを紹介してくれたチューターのフランシスも同じだった。
 フランシスは、本当に面倒見が良い人間なのだろう。
 初対面の時の印象を引き摺って、警戒心剥き出しで、仏頂面で返事もろくにしない下級生に辛抱強く笑顔で接してくれている。
 自分の言動を振り返ると、とてもではないが彼のように親切にできない。だが、親切にできないなどと思う自分の心が狭く醜いだけで、フランシスやクラスメートの方が普通なのだろうか。
 そんな考えもまた菊の心を憂鬱にするものだった。
 優しい兄の過保護に守られていた今までの菊の狭い世界では、他人の言動から真意を斟酌したり、他人と己を比較する必要などなかった。
 書籍やディスプレイを通して読む物語の登場人物達の感情を想像するのは得意だったが、数ページ先で心情が読み解ける物語とは違い、現実では己の推測が正しいかを確認する術がない。
 穏やかな温室のような居心地の良い生活が一転、刺激に囲まれた環境への変化によるストレスと自己嫌悪で菊の心は疲れ果てていた。
 
(このままどこかへ行けたらいいのに)
 
 ぼんやりそんな考えが浮かぶ。
 どこかへ、という単語から連想するのは、初日の奇妙な邂逅だった。
 自分の知る人たちと同じ顔で、けれども全く違う人たちがいたところ。
 あれはいわゆるパラレルワールドというものだったのだろうか。
 あの世界にいた兄もフランシスも、マシューの弟だと紹介されたアルフレッドという少年も、この世界で菊に向けてくれる笑顔とは違い、殺意に近い冷徹な空気をまとっていた。彼らに向けられた冷たい視線は、思い返すだけでぞっとする。
 だが十日あまり前のその記憶は、新しい生活の波にのまれ薄いものとなりつつあった。
 最初はふとした仕草にも沸き起こっていた恐怖心も、毎日共に過ごす兄や、フランシスの笑顔に上書きされて、今は殆ど消え去ろうとしている。
 それは生徒会長のアーサー・カークランドに対しても同じだった。
 唯一彼だけが、訴え、語りかけるような温度のある眼差しを向け、視線だけの会話を交わすほど近くに感じていたのに。
 今の彼は菊のことなど視界に入っていないようだ。
 勿論、あんなに眩しい人種がちっぽけな東洋人の同級生など目に入らないのは当然だが、なんとなく寂しい。
 そんなことを考えてこっそり彼を眼で追っていたが、生徒会長として振舞う彼をみているうちに、次第にあの眼差しは夢のように遠いものとなっていた。
 あれは白昼夢のようなもので、何かの拍子で迷い込んだ、本当に違う世界なのだろう。事実、あの後数度兄に連れられ、兄を訪れて入った生徒会室は、ただの殺風景な部屋だった。
 だからもう二度とあの世界に足を踏み入れることはないだろう。
 日常の生活に流される中で、ぼんやりと菊はそう考えるようになっていた。
 
 
 
『今日はいつもより30分遅くていいかな?』
 昼休みにわざわざ教室まで来て了解を求めたフランシスに『だったら別に今日は取り止めても』と言いそうになったが、『本当は昨日は倒れたし無理しない方が良いとは思うんだけど、ちょっとおしゃべりしたい気分だし付き合ってくれると嬉しいな』と笑顔を向けられれば断る言葉が出てこなかった。
 兄からたまに怒られる、嫌が言えない優柔不断さとはまさにこのことなのだろう。
 また溜息をつきそうになったのに気がつき、菊は意識を書架に向けた。
 時間潰しにと足を踏み入れた自習室の隣の図書室は、ずっと気になっていた場所だった。
 贅沢にも階の三分の二以上の専有面積を費やしているだけあり、想像以上に蔵書の量が多い。多国籍な生徒を配慮してなのだろう。和書だけでなく各国の書籍が揃っている。
 対訳辞典だけでも天井まである書棚二架分あり、中にはタイトルすら読めないものもあるが、かっちりと厚いハードカバーの背表紙を眺めているだけで楽しくて、少し気分が浮上した。
 フランシスとの約束の時間に遅れないようにしなければと意識の端にひっかけながら、ふらふらと広い図書室を彷徨う。
 別室で仕切られている集密書庫やプライバシーを重視した造りの勉強室、ロフトのように狭い木製の階段を上った所にある和書専門の文庫。デザイン関係の雑誌が開架されている角は少し開けた空間で、一段高くなった絨毯敷きの床に卓袱台のような円卓と無造作に転がるクッションがあり、女の子達が楽しそうにファッション誌とおぼしきものを指さしながら小声で談笑している。
 明るい貸し出しカウンターから奥へ行くほど少しづつ薄暗くなっていくのは、蔵書に陽が当たらないよう調整された窓の庇のためなのだろう。薄闇を照らすようにぽつりぽつりと効果的に配されている間接照明が心地よい空間を作り出していた。
 古い書物の匂いと、乾燥剤の独特な香り。
 王家の屋敷の中で自室の次にお気に入りの書斎と同じ匂いがして、それまでの憂鬱をすっかり忘れ、菊は自然に微笑む。
 これまでの菊の世界はインターネットと書籍、そして家族だけだった。人よりも文字の羅列や紙の方がよほど親しみがある。こんな図書室があるのならば、それだけでも学校に行くのも良いかもしれないとすら思う。
 書棚の端に彫られた学園の紋に、小さくとられた丸い採光窓。
 和書は畳敷きで、中東書物はバザールを摸した絨毯敷き。美術集などはアールヌーヴォー調の机と椅子と、図書室の中にテーマ毎の空間ができている気づく。
 書架の狭間に置かれたハイスツールに、書架に溶け込むような目立たない書見台を見つけ、次はここで本を読もうと心に決める。
 思いがけない小さな発見がたくさん詰まったこの空間はまるでおもちゃ箱のようだ。
 次はどんなものと出会うのだろう。
 足取り軽く歩き回るうちに、木製の扉を見つけた。
 両開きの大きな扉をそっと開けると、視界に書架が飛び込んだ。
 重厚な書棚に並ぶ上製本はどれも英語のタイトルだ。
 そういえば手前の布で仕切られた空間には中東の書物が並んでいた。
 とすればここは書斎を摸した英米文学の空間なのだろ。
 扉に隠れた先には年季の入った板床に毛足の長い上質な絨毯とご丁寧に革張りの長椅子まで見える。
 少しドキドキしながらそっと部屋に入り、後ろ手で扉を閉めながら全体を見回した菊は、中にいた男と視線が合った。
 碧の瞳、金色の髪、端正な顔。
 ――軍服
 アーサー会長――、ではない、もう一人の方のアーサーだ。
 驚いた顔でガタッと彼は立ち上がる彼に、真っ白になった頭のまま、菊は反射的に身を翻した。
 飛びついた扉を慌てて開き、部屋から出ると背中で閉める。
 だがそこに広がるのは、今まで居た筈の書架が並ぶ図書室ではなく、絨毯が敷き詰められたどこまで続くか分からない廊下だった。
 窓から見えるのは鬱蒼と広がる緑。さっきまでの雲一つない青空は、今にも雨が降り出しそうな曇天で、なによりも空気の質が違う。
 室内だからという言葉では説明ができないほどさらりと乾いた空気は、日本の湿度ではない。
 これは別の世界に来てしまったらしい。
 菊は観念し、一つ溜息を吐くと、恐る恐る扉を開いた。



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