平行世界 3



「――うん、大体良くできてるよ。ああでもここのrepairは、動詞がneedだからrepairedじゃなくてrepairingね。ここは能動態だけど受け身の訳になるから気をつけて。他はいいんじゃないかな」
 よく頑張ったね、と絹のようにつやつやした黒髪を撫でてやると、無表情が少し緩み、頬も紅潮した……ような気がする。
 なにしろこの少年は、常に無表情で、一見何を考えているのかさっぱり分からない。
 ”能面のような” と表するのだっただろうか。
 来日以前からこの国の文化に傾倒しているフランシスは、彼にぴったりな表現を思い出す。
 本田菊という少年にこうして勉強を教えるようになってもう一週間以上経つが、彼が笑顔を向けてくれたことはただの一度もない。
 日本人は愛想笑いがデフォルトの民族だと認識していたのだが、愛想笑いすら浮かべない、実に(フランシスの知る)日本人らしからぬ少年だった。
 出会い頭から怯えた顔を向けられ、さては自分の華々しい噂を聞いて警戒しているのかと思ったのだが、『お兄さん、いくら可愛い子でもいきなり押し倒したりしないから』と冗談交じりで告げたところきょとんとした顔をしたので、そういうわけでもないようだ。
 フランシスがそんな彼のチュ−ターを引き受けたのは、彼の兄から頼まれたからだった。
『実に不本意極まりねぇあるが、おめぇに頼むのが一番確実あるからな』
 悔しげに唇を噛み、友人の王耀が切り出した時には本気で耳を疑った。何しろ傲岸冷徹、ついた渾名がエンペラーという耀が溺愛し、ことあるごとに自慢しながら二言目には『ぜってーに近づくでねぇある! 我の可愛い可愛い菊に近づいたら肉切り包丁で三枚おろしにするあるよ!』と常々宣言していた弟である。
『ええと、俺がお前の弟のチューター? それってなんの冗談?』
『いつもへらへらしてるおめぇと違って我は冗談でこんなこと言うわけないある!』
『ああそう……。で、理由は?』
『……このままだと…留年しちまうある!』
『あー…、菊ちゃんってもしかして勉強があんま――』
『何言うある! 菊はそんじょそこらの学生なんかより、よっぽど賢いある! お前んとこの図々しい表兄弟(いとこ)と変わらねぇくらい頭はいいあるよ、ってか菊ちゃんなんて馴れ馴れしく呼ぶでねぇある! 菊が汚れるある!』
 本気の眼差しで力説する耀にげんなりしつつ、アルフレッドと同じくらい頭が良いということは、とフランシスは頬を歪めた。
『じゃあ、俺に頼みたいのってもしかして……』
『対人関係のフォローある』
 当然、と頷く耀に、フランシスはこめかみを押さえた。
 このH学園はインターナショナルスクールの中でも教員やカリキュラムの質も良く、バカロレアやWASC、CIS、ACSIなどの認定資格の付与、SATや ACT、GCEのAレベルを初めとする各種大学入試資格のバックアップもしてくれることから、多様な国からの学生が集まっている。
 教員のプロフィールを見るとこんな極東で雇われ講師をするなど考えられない経歴の持ち主ばかりで、中には指折りの有名大学で教鞭をとったものも何名もいる。
 勿論学費もそれ相応に高額だ。とはいえ一般のスクールと比べ大差があるというほどでもないので、当然入学希望者は殺到する。しかしこの学園では入学に際しての学力試験は一切行われず面接だけで入学者が決められるのだった。
 フランシスの場合は特殊な事情もあり、面接すらなく履歴書だけでOKが出たので、恐らく受け入れる学生はこの学園の創設者である理事長の意向が強く反映されているのだろう。
 これだけでも充分変わっている学園であるが、集められた学生もこれまた個性的な面々ばかりだった。
 通常の授業では対応できないオーバーアチーバーやアンダーアチーバー、ある能力に特化したギフテッドやタレンテッドという生徒ばかりで、おかげでこの学園では学力偏差値というものが用をなしていない。
 目の前で面倒なことを言い出す耀は古今東西の漢詩という漢詩を読み尽くし、図書館に並べられている二十数冊からなる漢詩全集はほぼ暗記しているという文人で、書家としても活躍している。フランシス自身も画家及び新進気鋭のデザイナーとして一応画壇にデビューした身であるし、名のあるコンクールで優勝したピアニストやオリンピックでメダルを取った射撃の名手、企業のラボに出入りして研究者として己で学費を稼いでいるものもいるという。
 そんな異能奇才、個性の固まりばかりが集まるこの学園で評価されるのは一般学校で重視される知識の蓄積ではなく、いかに他者と上手く折り合い協調するかという、所謂コミュニケーション能力だ。
 授業も教師が知識を教える教授式は僅かで、多くは与えられたテーマを自分で調べそれに基づいた討論で進められる。
 例えそれがディベート形式であっても相手を論破するだけでは評価は不可。いかに周囲を持論に引き込み、相手をも納得させるかが評価の対象になる。
 それは己の才に寄りかかって生きてきた一芸に秀でただけの天才児達にとって、一番苦手な分野ともいえた。
 そして耀の弟のように、これまで全く学生生活を経験していないという少年にとっては未知の分野だろう。
 耀の説明によれば彼の弟は躯が弱かったこともあり、殆ど学校には通っておらず、自宅でホームスクーリングをしていたのだという。この春からH学園に編入したものの、二ヶ月間で出席日数は始業式の一日だけ。所謂ヒキコモリというヤツだな、とフランシスは内心判断していた。
『あーでもさぁ、なんか俺、お前の弟くんからは嫌われてるっぽかったんだけど?』
『そりゃそうある。菊は不潔不浄なものは嫌悪する、心が綺麗で純粋な子あるよ。おめぇなんかそりゃ眼にも入れたくない汚物に違いないある』
 言ってくれるじゃないか、と青筋を浮かべるフランシスに、ふぅと耀は溜息を吐く。
『本当なら我だって自分でなんとかしたいある。しかし我では無理あるよ……』
 確かにエンペラーと呼ばれてしまうほど態度がでかい耀は、彼自身が周囲との協調に問題を抱えているので、とても弟のフォローなどできようはずもない。せいぜい上手く行きかけたものを壊すのが関の山だ。
 自分自身でもその弱点を自覚している彼は、それを補うため生徒会の役員などというしち面倒くさい役職について、総合評価を上げようとしているくらいである。
 その点、フランシスは対人能力に悩む学生を支援するチューターとしての実績は折り紙つきだった。
 何しろフランシスがこの学園にやってきたのは、すんでの所で落第と退学処分を受けるところだった従兄弟たちの面倒をみるためだ。
 突出した知能指数に比する能力で飛び級を繰り返し、自国でも最高峰の工科大学の院まで進んだ弟と、そんな弟の陰に隠れ、うまく自己表現ができない兄。
 そんな兄マシューを心配して、彼らの両親はこの学園に入学させたのだった。
 当初は躓きつつも徐々に軌道に乗るかと思われていた彼の学園生活を壊したのは弟アルフレッドだ。『だってマシューが一人でニホンで上手くやれるか、心配なんだぞ!』と主張し、わざわざ院を休学して兄の転校先まで乗り込んできたのだった。
 勿論彼に悪気があるわけではない。穏やかで引っ込み思案な兄を彼なりに愛し、心配してのことだ。
 今まで双子のようにべったり一緒でなにくれとなくマシューの世話を焼き、焼きすぎて一方的に彼の代弁をして発言の機会を奪ってきたくらい兄に対して過干渉だったアルフレッドが、いきなりの異国での離ればなれの生活を我慢できるはずもなく当然と言えば当然の行動ではある。
 しかし、彼の今までの行動パターンはH学園では通用せず、学業生活及び総合評価は悉く最低点。アルフレッドの登場で、やっと少しづつではあるが自分の意見が出せていたマシューの進歩も元に戻り、少しでも自信をつけさせるためにこの学園にやったのにこのままではマシューにとって逆効果になると、叔母がフランシスへ泣き落としのSOSをかけてきたのだ。
 なにしろアルフレッドのオーラはすごい。
 彼の両親や上の兄もマシューのことを気にかけなければと頭では分かっていても、アルフレッドの明るく強い勢いに巻き込まれ、結局マシューが置き去られているのがいつものパターンだ。
 一族の中ではフランシスくらいしかアルフレッドをいなせる者がいないのだ、と力説する叔母にそれもどうなんだと思いながら、結局頼みを受け入れたのは日本という国に興味を持っていたのと、やはり大人しく影の薄いマシューが気がかりだったせいだ。
 幸いにして教師と論戦を戦わせまくり授業妨害と見なされ退学処分になりかけたアルフレッドと、コミュニケーション能力に最低点を付けられ留年になりかけたマシューは、フランシスの尽力でどうにか通常の学園生活がおくれる程度になったのだが、その間の苦労は筆舌に尽くしがたく、もう一度しろと言われても御免である。
 
 (だからそう簡単にチューターを引き受けろと言われてもなぁ)
 
 下級生を一対一で指導するチューターになれば教師の覚えもめでたく、相手に進歩が見られれれば生活面のポイントも高く付与される。この学園でやっかいなのは、最終的な成績評価が同率の学業ポイントと生活ポイントで下されることだが、フランシスは既に問題児を二人も更正させているのでこれ以上ポイント稼ぎも必要ない。むしろ下手に手を出して失敗すれば評価に響きかねない。
 この手の指導は双方の信頼関係がものをいう。
 あんなに警戒心強そうな少年とは、信頼関係を築くことからして難しそうだった。
『そうは言われてもねぇ……』
『分かったある! この間入手した九谷の茶碗を半額で譲るある!』
 古美術も商っている王家の伝手で、これまでもフランシスは色んな日本の古美術品を手にしている。
 件の人間国宝の茶碗は金銭面で折り合いがつかず、涙を呑んだ品だ。
『……そうだねぇ、耀には世話になってるからね。特別に引き受けましょう。しっかし俺だって暇じゃないんだけどね』
『彼女と別れて暇だってぼやいてたのはお前ある』
 そんな会話を交わしたのは一週間前。
 耀が自慢するだけあって、確かに菊はアルフレッドまでとはいかないものの頭の回転も速く、独学とは思えぬほどバランスのとれた知識を有していた。
 学力テストだけで評価すればこの学園でも首位を争えるだろう。
 だがそうはいかないのがこの学園の難しい所で、彼と同じクラスのマシューに聞いたところ、案の定授業では雰囲気に呑まれ殆ど発言できないでいるという。
 このままでは早々に落第生のレッテルを貼られるのは間違いない。
 チューターを引き受けたからには、上手く話を聞き出してアドバイスをしないといけないのだが、予想通り相手は手強かった。
 改めての顔合わせで『よろしくお願いします』と頭を下げられた時は怯えた様子がなかったので、これは大丈夫かもしれないと楽観視したのは早計だったようで、『授業で上手くしゃべれてる?』だの『菊ちゃんが馴染めるかお兄さんとっても心配だよ』などと話しかけても、『まぁそれなりに』『善処します』『ご心配ありがとうございます』。無表情の彼が答える言葉は全て紋切り型だ。
 だったらまずはお互いをよく知ることから始めようと他愛のない話題を振れど、返るのは相槌程度、プライベートの話になると明らかに苦手だという空気を隠さず沈黙する。
 ここ数日は彼の方も頭を使ったのか、先手を打って『ここが分からないんですけど』と問題集を広げる手に出てきた。
 苦手教科は英語を始めとする語学一般だそうで、おかげでフランス人が日本人に英語を教えるというなかなかシュールなことになっている。
 こうなると根比べのようなものだと、フランシスは長期戦を覚悟していた。
 
 頬杖をついて隣の少年を眺める。
 小学生と言われても信じてしまいそうな幼い顔を少し顰め、英文法の問題集を解いている。
 時折シャーペンの頭で唇をなぞるのは彼の癖なのだろう。
 彼のチューターを引き受けたのは骨董茶碗につられたという即物的な理由もあるが、今後も長く付き合いがあるであろう耀に恩を売るためと、何よりこの少年自身に興味を抱いたからだ。
 初対面の怯えられ方は、己を万人受けすると自負しているフランシスにとって新鮮だった。
 それだけではない。フランシスにはお化けにでも遭ったかのような怯え方をしたくせに、あのアーサーを食い入るように見つめていたのだ。
 この落差はなんだ。
 そんな好奇心がフランシスの首を縦に振らせた一因だったが、ほんの数日過ごしただけでこの少年のことを気に入るようになった。
 美しい少女は少年に似るというが、逆もしかり。彼は顔の造作だけでなく気質もどことなく潔癖な少女のように硬質で、それでいて不思議な透明感と柔和さがある。
 いつもの恋愛遊戯の対象にしたいという欲が起こらないのは我ながら不思議だが、恐らく自分は――
「ちょお、探したで! こんなとこにおったんかい!」
 フランシスの思索は不意に響いた声に破られた。
『静粛に』と壁に貼ってあるポスターを無視して大声を出すのは、クラスメートにして友人のアントーニョだ。
「おい、自習室では静か――」
「ふぉぉぉ! かわええ子やん! なぁ自分名前なんて言うん?」
 フランシスの制止を耳に入らぬかのように突撃してくる。
 そういえばコイツは小さくてちょっと人に懐かない感じの可愛い子が大好きなんだった、と自分のチューターの少年を携帯の待ち受けにしている悪友の趣味を思い出した。
「……本田、菊です」
 顔を寄せる青年に反射的に身を引きながら、菊は困惑した顔で眼を瞬かせている。
「菊ちゃんかぁーかわええなぁ、頭撫でさせてや! うわーさらさらで気持ちええやん。なぁフランシスとはどういう関係なん? こいつこんな顔して――」
「はぁい、変なこと言わないように。菊ちゃんは俺のチューター対象。彼は耀の弟君だからね。妙な真似すると殺されるよ」
 慌てて口を塞ぐ。だが、あっさり手を振り解いて誘いをかけるアントーニョは筋金入りの玉蹴り馬鹿だった。
「なぁ自分も一緒にフットボールせん?」
「……ふっっぼぉる?」
「サッカーのことだよ」と助け船を出すと、うんうんと友人は頷く。
「日本ではサッカー言うねんな。今から皆でするんよ。二年生(ソフォモア)のキーパー、弟がやる言うてギルのヤツがはりきっとんねん」
 三年生(ジュニア)の貫禄見せつけたるわ! と高笑いするからには、今日は良いメンツが集まったのだろう。
「他のメンツは?」
「こっちは大体いつものヤツらやけど、珍しゅうバッシュがキーパーやる言うとったなぁ。向こうはカークランドの野郎も入るいうさかい、ぼこぼこにしたるわ!」
 にやりと笑うアントーニョは、アーサーと犬猿の仲だ。
 アーサーの名前に小さく肩を揺らす菊に、アントーニョは気づいた様子はない。
 それを横目で見ながら口角をやや上げたフランシスは、広げてある問題集を閉じた。
「じゃあ勉強はこれくらいにして菊ちゃんも一緒に行こうか?」
「あの、私は――」
 明らかに気が進まないと全身で訴える少年に、「なぁ自分は何年なん?」とアントーニョが訊ねる。
「なんや、ソフォモアかぁ」
 ぼそぼそと返した菊の言葉にがっかりした顔を見せながらも、強引なラテン青年は菊の首をがしりと抱き、引きずっていく。
「まぁええわ! やったらベンチで応援しときや。ほな行くで〜!」
 縋るような眼を向けられるが、それを笑顔で受け流し、フランシスも後に続く。
 初対面の時以来、アーサーと菊の二人が顔を合わせる所を見たことがない。
 あの時の反応は見間違いか否か。
 これはフランシスの好奇心を満たす、絶好の機会となるはずだった。



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