平行世界 2



「――なんでお前がここにいるあるか?!」
「なんでって私にここに来るように言ったのは兄さんじゃないですか!」
 振り向けば、なぜか険しい顔で叱りつける兄の姿ある。それに泣きたくなるような安堵を覚えて、菊は腹立ち紛れに思わず大声で怒鳴り返した。
「……今、なん、て…言ったある?」
「ここに来るように言ったの、覚えてないんですか!」
 脅す勢いで言いつけた兄の言葉がなければ、こんな所には絶対に足を踏み入れなかったのに。
 つい詰るような口調になった菊に、兄は呆然とした表情で、喘ぐような声を出した。
「その……後ある、日本!」
「ちょっと兄さんまでなんで日本って呼ぶんですか、ちゃんと菊って――」
「菊〜〜〜!! そうある、そうある! 我はお前の兄あるよ! お前は我の可愛い可愛い弟ある!」
「兄さん、どうしたんですか? 痛いです、痛いですってば!」
 普段は冷静沈着な兄は、妙なツボに入ると興奮するきらいがある。だが、何が引き金になったのか分からぬまま、強い力で抱き締められ、眼を白黒させる。じたばたともがく菊の背後から、ひんやりとした声がかかった。
「聞き捨てならないな。君はたかだか兄と呼んでもらったくらいで日本を許すって言うのかい?」
「煩いある、美国。日本が我を兄と呼んだら、問題は解決したも同じある。……菊、お前哥哥の言うことをちゃんと聞く、良い子あるよな?」
 美国とはなんだ、なぜ兄まで自分のことを日本と呼ぶのだ。
 そんな疑問が湧き上がるが、兄の雰囲気に気圧されて、菊はおずおずと頷いた。
「はぁ……兄さんが美味しいご飯を作ってくださる限り、聞きますけど……」
 家の中で料理を担当する兄の権力は絶対で、機嫌を損ねれば食事抜きの憂き目に遭う。お弁当を作ってくれる兄の厚意で昼ご飯代として渡されているお金がオタクなグッズに回せているのだ。ここで兄の心証を悪くしてへそを曲げられるのは得策ではないだろう。
 そんな判断で曖昧に頷いた菊に、勝ち誇ったように兄は眼鏡男に胸を張った。
「ほれ見るある!」
「へーご飯作るくらいでこーんな可愛い子が手にはいるなら、お兄さんいくらでも作っちゃうよ」
「そっかぁ、美味しいご飯があればいいんだぁ。日本君、僕んちのご飯も中国君に負けないくらい美味しいんだよ。いっそ中国君も日本君も一緒に僕のものになればいいんじゃないかな?」
「それはダメなんだぞ、ロシア! 日本は今オレが……」
「煩ぇある、お前ら! 我の弟にちょっかいかけるでねぇある!」

 なんだろう、これは。
 何かがおかしい。

 剣呑な空気は変わらぬままに、にこやかに笑いかける髭の男。酷薄な瞳で誘いかける大男。むっとした表情を浮かべ、それを咎める眼鏡の男。
 誰も彼も皆冷たい何かを肚に隠し持っているようで気持ちが悪い。
 言葉とは裏腹に非友好的な視線から身を隠さんとして兄に身を寄せた菊は、視界に入った兄の手に、はっ、と気がついた。
「兄さん、指の怪我は……?」
 兄の右手の人差し指には、昨夜硝子のコップを落とした時に切った傷があるはずだった。
 かなり深かった傷を包帯で止血し、今朝も出掛けにきっちりと巻き直したはずなのに。
 見下ろすほっそりと長く美しいはずの兄の手はなぜか酷く荒れていて、指には包帯はおろか傷もない。着ている服も見たことのないものだ。
「怪我? 怪我ってなにあるね? ああ、お前が斬りつけた肩の傷はもう治ったあるよ。あれしきたいした怪我じゃねえある」
 不敵に笑う兄の笑みに、見たことのない酷薄な色を見いだし、全身の血の気が引くような懼れに菊の視界は揺らぐ。
「にぃ……さ…ん…?」

 違う、これは自分の知っている兄ではない。
 兄は、王耀ならば、自分をこんな眼でみたりしない。

――これは誰だ?

 足元が崩れ落ちていくような恐怖に襲われる。
 息を詰め、救いを求めて視線を彷徨わせると、碧の瞳と視線が交じった。
 すがりつくような、怯えるような眼差しを向けていることに気づけずまま、唯一温度が感じられるその瞳をみつめていると、先ほどから閉ざされたままだった口が動く。

――オマエハダレダ

 惑ったように揺れる碧に、何かを堪えるようにきゅっと寄せられた眉。
 声に出さず唇が象った言葉で、彼もまた、同じ違和を感じていたのだと知る。

(――あなた方こそ誰なんですか!)

 少なくとも、兄も、彼も、自分が知る二人ではない。

 ここは違う!

「あッ、日本! どこへ行く気だい!」
「待つある、日本!」
 身を翻したのは咄嗟のことだった。
 どこへ行く当てがあるわけでもない。
 ただ、ここは違う、とそう強く念じ、絡みつく声を振り払うように部屋の外に駆け出でる。
 バタン、と扉が閉まる音を背後に聞きながら、眼をつぶって菊は走った。
 バクバクと心臓が嫌な音を立てて響く。
 不意に足が縺れ、バランスを崩して倒れ込みそうになる。
 その身体を抱き留めたのは、大きな手の感触で、同時に凛と厳しい叱責が降ってきた。
「コラッ、危ないであろう! 廊下を走るでない!」
 はっと眼を開けると、白い布地に縫い取られた学園のエンブレムが飛び込んできた。
 知っている紋章だが、パニックを起している頭はすぐにはそれを認識せず、ぼんやりとそれを眺める。
「貴様、顔色が悪いが大丈夫か?」
「……あ、…えっ……」
 顔を上げると気難しい顔をしたプラチナブロンドの男が、心配そうに顔を顰め見下ろしていた。
 呆けたように言葉を返さない菊に、彼はますます眉を寄せる。
「どうした、具合が悪いのであるか?……具合が悪いのであれば、まずは保健室で健康状態の測定を――」
「菊! どうしたあるか!」
 廊下の向こうから聞こえた大声に、菊はびくっと身を震わせた。
「兄……さん?」
「それは我の弟ある。何かあったあるか?」
 駆け寄ってきた兄は、目の前の青年と顔見知りなのだろう。
「いや、この少年が走ってきたのだが……」
 挨拶もそこそこに訊ねる制服姿の兄の手に、今朝自分が巻いた包帯の白を認めた菊は、思わず抱きついた。
「兄さん――」
「どうしたある、菊?」
 普段は醒めた態度で兄に口答えばかりしている弟の珍しい行動に驚いたのだろう。
 おろおろとした声で「大丈夫あるか?」と訊ねるが、菊の方は言葉を返す余裕もなかった。
 今になって歯の根が合わぬ恐怖に身体を丸め、ぎゅっと兄にしがみつく。
「とにかく具合が悪いようなら、保健室に連れて行くとよいのである」
「謝謝。――菊、そんなにくっついたら孩子みたいあるよ」
 とんとんと背中を叩かれ、いつもの少し母音を伸ばす兄の癖で名前を呼ばれると、嫌な感じに跳ねていた心臓が少し落ち着く。
 だが、なんだか離れがたくて、兄から咎められないのをいいことに、菊は眼を瞑り、優しく頭を撫でる手のひらの感触を追う。
 やがて兄の手が止まると同時に、近くで明るい声が聞こえた。
「うっわ、可愛い子じゃん、耀。なに、誰?」
「我の可愛い弟に近寄るでねぇある。いくら菊が可愛いからといって、妙な真似すると三枚おろしにするある、覚悟するよろし!」
「やれやれ、信用無いなぁ。……コンニチハ、お兄さんはフランシスっていうんだけど、菊君? でいいのかな?」
 聞き覚えのある声に、恐る恐る顔を上げる。
 身をかがめるようにして覗き込んでいるのは、薄い南の海のような蒼い瞳だ。

『――異分子発見』

「……フランス…さん」
 髭はないけれど、ゆるくうねる髪は一つにまとめられているけれど、服装も違うけれど。
 けれども彼は確かそう呼ばれていた。
「うん? ああ、フランス出身だよ。よく分かったね」
 面食らったような表情を眼を瞬かせることで繕い、にっこり笑う彼には、敵意など欠片もない。だがそれが本当のものか分からず、菊は笑顔を返せなかった。
「いきなりなにあるね、菊。これの名前はフランシスあるよ、ちゃんとお前も自己紹介するよろし」
「は、はじめまして……」
 おずおずと小さく呟くと、気にした風もなく彼は冗談めかした言葉を返した。
「ははは、お兄さんが色男過ぎてびっくりしちゃったかな?」
「自惚れが過ぎると気持ち悪ぃある。……菊、一体どうしちゃったあるか? 具合悪いあるか? 熱がある……ようではないあるが、顔が真っ青ある。やっぱり何かあったあるか?」
「……なにも、…なにもないです」
 こつんと額を合わせて熱を測るいつもの仕草に、ようやく少し力が抜けて、まともに声を出すことができたような気がした。
「ちょっと緊張しただけです……学校、久しぶりだったから」
「そうあるか。じゃあ早く帰って――」
「おい、お前ら! そんなとこでなにやってんだ? さっさと部屋行けよ」
 廊下の向こうからかけられた声に、はっと菊は背中を強張らせた。
「アーサー……会長……」
 不機嫌そうな顔でこちらに向かってくるのは、制服姿のアーサー・カークランドだ。
 少し跳ねた金髪も、高貴な顔立ちも、なめらかな声も変わらない。
 ただ違うのは、不機嫌そうに眇められた碧の眼差しだけだ。
「あっちゃー煩いの来たけどどうすんのよ、耀?」
 小声で囁くフランシスには答えず、
「我はもう帰るある、後のことは頼んだあるよ」
 と兄は大声で不機嫌そうなアーサーに叫んだ。
「はあ?! 何言ってんだ、王! ざけんな、文化部の部長どもに日時指定したのテメェだろうが!」
「煩ぇある眉毛! どうせ我は文字打つだけの飾りあるのであろう? だったらそれくらいのこと、お前の賢い弟にさせればいいあるよ!」
「それくらいしか能ねぇんだから、最低限のそれくらいやりやがれ!」
「あーあーちょーっといいかなぁ? 仮にも生徒会役員がこんなクソ目立つとこで五歳児の喧嘩みたいな真似しないで欲しいんだけどなあ。ほら、体面とか体面とか体面とかあるでしょ。…耀、いいから帰んな」
「わりぃ、恩に着るあるよ」
「菊ちゃんもバイバイ」
 小さく手を振ってみせるフランシスに戸惑うが、兄に肩を抱かれ、慌てて菊はぺこりと頭を下げた。
 足早に立ち去る兄の歩調に小走りについて行きながらちらりと振り返れば、不機嫌な顔でフランシスにくってかかる生徒会長の姿がある。
 
(――似てる、……いや、そっくりだ)

 じっと見詰めていると、視線に気がついたのか彼が視線を向ける。
 
(似てるけど……違う)
 
 あの瞳は、もっと不思議な深みがあった。
 恐ろしいほどの熱量と、そして何かを訴えるかのような意思があの碧には宿っていた。
 不審げに眼を細められるのに構わず、どこかにその欠片が見付けられないかと見詰めかえす菊は、自然アーサーと見つめあうこととなる。
 それを横でフランシスが興味深げに見守っていることには、最後まで気づけぬままだった。



Back + Home + next