平行世界 1



タンスの扉の向こうに雪原を見つけた兄弟だって、ウサギの穴に落っこちて不思議な世界に迷い込んだ少女だって、あるはずのないものが先にあったからそこが異世界だと気づけたわけで、先にあったのが当然あってしかるべきものなら、すぐには気づけなかったに違いない。
 だから本田菊が生徒会室とプレートが出ているドアを開けて、正面の席に座る一人の青年と会議用の机を見た時、そこが彼の属している世界ではないことに気づくはずもなかった。
 何しろ生徒会室に来るのは初めて。この学園に登校するのだって二日目である。
 だがいきなりかけられた怒号に、面食らいはした。
「なっ! なんでお前がこんなとこに来るんだよ、日本!」
 金髪碧眼の秀麗な顔に驚愕と怒りが入り混じった表情を浮かべ、ガタンと椅子を倒す勢いで立ち上がった相手の迫力に、眼を瞬かせる。
 どこかで見た顔だ、と思った。
 すぐに誰だか思い当たる。なにしろ登校拒否の引きこもりをしていた菊が知る相手など、限られているのだ。
 始業式で校長よりも目立ち、堂々と挨拶をしていた生徒会長。
 この学園で唯一兄以外の識別できる相手だ。
 確か名前はアーサーなんとかだった。アーサーという王様の名前は、実にきらきらしい王子様な容貌で偉そうな態度の彼にぴったりだなぁと思ったので覚えている。
「ええと…」
「何しに来た! ここは自分が来ていい場所じゃないことくらい分かってるだろう」
 なぜ来たと言われても、この生徒会で書記をしている兄に『絶対一人で帰るでねぇある。言うこと聞かないと食事作らねぇあるよ』と脅され、指定されたからやってきただけであって、自分が場違いなのは重々承知しているし、用さえ済めばさっさと退出する気ではある。
 だが説明をする間もなく、やけに殺気立った相手は、矢継ぎ早にまくし立てた。
「もしかしてスパイか? こんなに真っ正面からくるなんて、馬鹿だろお前! 何考えてんだ!」
「あの……」
「今なら誰も来てないから、黙っといてやるから、さっさと帰れ、な、日本……」
 殺気を一転、狼狽した様子で周囲を伺いながらせき立てる相手に、菊はあっけにとられた。
 スパイとはなんだ、スパイとは。
 生徒会室に足を踏み入れただけでスパイ呼ばわりとは、一体この生徒会は何をしているというのだ。
 よく見れば、彼の着ている服はカーキ色の軍服のようなもので、学園指定の制服ではない。確かに私服も許可されているが、私服がこれということはミリタリーオタクなのだろうか。
 まぁ自分もオタクなので人様の趣味はとやかく言えないのだが、趣味が高じてて初対面の相手をスパイ扱いするのはいかがなものかと思う。大体にして生徒会役員ではないとしても、学園の生徒である以上自分だって生徒会に属する一員、生徒会室に来る権利はある。会議中ならともかく、会長といえどあからさまに追い出しにかかるのはよくないはずだ。
 ついでに言えば確かに自分は日本人ではあるが、本田菊という名前がある。殊更に、日本、日本と国籍で呼びかけられると、なんだか馬鹿にされているような気がして不愉快になるというものだ。
 多国籍な生徒が集うこの学園では各種差別はタブーとされていて、人種国籍で苛めるような輩はいないと兄から聞かされていたのだが、会長自ら誤解されかねない発言をして良いのだろうか。
 相手の不躾な態度にらしくもなくいらっとした菊は、一言物申そうと口を開いた。
「ええと…アーサー会長、確かに私は日本人ですが、一応これでも本田菊という名前があるのです。ちゃんと名前で呼んでいただけませんか?」
 自分の名前を呼べというのに、相手の名前を呼ばないのはおかしいだろうと思い、名字は分からないので、とりあえず知っている名前の方で呼びかければ、返ってきたのは沈黙だった。
 恐ろしいほど真剣な顔で凝視する相手に、何かまずいことを言っただろうか、と菊は内心腰が引けた。
 この学園で日本人は菊一人。(兄は諸々の理由で中国籍である)
 だから「日本」と呼びかけられたからには、彼は自分のことを個体識別しているのだと思っていたのだが、違ったのだろうか。
 考えてみればお偉い生徒会長様が、不登校引き籠もりの一生徒のことまで把握しているのはおかしな話ではある。
 今更ながらそう思い当たり、「ご存じなかったかもしれませんが」と小さく付け加えたのだが、「……覚えてるに決まってるだろう」とようやく返った低い声にほっと胸を撫でおろした。
「――俺が、お前の名前を呼んで良いのか?」
「はぁ……そうしていただければありがたいのですが」
「なぜだ?」
「いえ、なぜも何もそれが私の名前ですから」
「違う! なんでそれを今言うんだ?! 今更そんなことを言い出して、どんな罠を仕掛けようっていう気だ!」
 ぎらぎらと殺気だった瞳を向ける彼の言葉の意味が分からない。
「ええと、罠ってなんのことですか! 罠も何も名前を呼んでくれって言っただけなんですが」
「本当に他意はないっていうのか?!」
「……ええ」
 目の前の青年の纏う攻撃的な雰囲気が怖くておずおずと頷く。
「くそッ! だったらなんでもっと早く……」そう小声で呻くように吐き捨てた青年は、顔を上げた。
「つまり国の立場ではなくて、個人として俺に会いに来てくれたと思って良いんだな、……菊?」
 またもや意味のわからないことを言い出す相手に面食らう。

(どうしましょう、なんだかこの人おかしいです。言っている言葉の意味が分かりません。っていうか、なんでこの人に会いに来たことになるんですか?!)

 意味が分からない発言もだが、妙に痛い眼差しがなによりも恐ろしい。さきほどまでの殺気とは質の違う、だが同じくらい痛く熱っぽい視線に捉えられて、金縛りにあったように視線が外せない。
 いつの間に近づいていたのか、不意に痛いほどの力で両肩を掴まれ、菊は半ばパニックに陥った。
「ええと、いえ、あの、私がここに来――」
 からからに乾いた口腔に自分が動転しているのだと気づかされ、気づいたその事実にまた拍車をかけられる。縺れる舌を必死に動かしてどうにか紡ぐ言葉を断ち切ったのは、楽しそうな声だった。
「あー日本君がいる。なーんで日本君がこんな所にいるのかな? 僕のものになりにきたのかなぁ?」
 はっと振り向くと、見上げるほど背の高い銀髪の青年がいた。
 すでに初夏を迎えているというのにコートにマフラー姿という大柄なその青年の後ろから、彼ほどではないが菊よりは遙かに体格の良い男達が続く。
「ちょ、ざけんな! コイツはお前のものになんかなるわけないだろう!」
「えーそうかなぁ? 少なくとも君のものになるよりは現実味があるんじゃない? だって君んとこ……」
 理解できないことを、否、頭が理解を拒否するような内容を言い争っている会長とマフラーの大男を視界から遮るように、二人の男達が間に入る。
「ほぅ…異分子発見、どうして君がここにいるわけ?」
「なんだ、スパイにきたのかい、日本? 一人で乗り込む勇気は買うけど、君のその勇気は無謀と紙一重なんだぞ!」
「スパイねぇ。でもスパイにしてはなんか様子がおかしいよね。お兄さんとしてはどうしてイギリスと二人っきりで何話してたのかが気になるところよ」
 顎髭を撫でながらにやにや笑っている淡いブロンドに蒼い眼の男も、流れるような金髪で眼鏡をかけている男も、どちらも驚くほど整った容貌で、女性ならばうっとりと見惚れるであろう見目の良さだ。
 だが幸か不幸か菊は女性ではないので彼らの端正な顔立ちよりも、濃淡の差はあれど同じように冷ややかな色を帯びた二対の蒼眼に込められた殺気が恐ろしく、思わず後ずさった。 
「スパイって……違います!」
「おや、違うの?」
「じゃあまさか本当にイギリスに会いに来たって言うんじゃないだろうね!」
「イギリスってアーサー会ちょ――」
「アーサー!」
 会長のことですか? と確かめようとした言葉は、髭の男の大仰な声にかき消される。
「アーサーだって?」
 すっと細められた眼鏡の男の眼差しに、何か拙いことを口にしたのだと反射的に気づく。
 だが会長の名前を口にすることのどこがいけないのかが分からない。
「同盟を組んでいた時だって、アーサーなんて呼んでなかったはずだよね。いつの間に君たちはそんなに仲良くなったんだい? イギリス、もし君が俺たちに黙って日本と連絡を取り合っていたのなら、重大な背信行為だよ」
「まぁ待てよ、もしかすると早々に降伏しにきた可能性もあるぞ。それこそそこの坊ちゃんの手引きでな」
「寝言は寝てから言った方が良いんだぞ、フランス! 今、この時期に日本が降伏なんて……」

 スパイ?
 同盟?
 背信行為?
 降伏? 

 非日常で物騒な単語を大真面目に羅列する彼らは、一体何を話しているのだろうか。
 皆揃いも揃って妙な服装をしているが、彼らもまた生徒会の役員なのか。いや、そもそも彼らは学生なのだろうか。
 彼らの体格や落ち着いた雰囲気は、学生というよりも教師と言われた方が信じられる。
 それよりも何よりも、自分が彼らになぜ敵意を向けられているのかが分からない。
 口調こそは穏やかで、それでいて剣呑な視線を外さない男達が恐ろしく、救いを求めて菊は視線を巡らせた。
 冷ややかな蒼に、紫。
 その中で一瞬交差した碧だけが、案じるような何かを語りかけるような熱を湛えていて、その眼差しに咽を押しつぶしていた冷たい恐怖が少し溶ける。
「あの……」
 おずおずと切り出した小さな声を背後からかき消したのは、菊が待ち侘びていた兄の声だった。



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