英国旅行記


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「ところで、何を話してたんだ?」
「この辺りの観光名所について、色々教えていただきました」
「それ以外にも何か話してただろう」
 トップハットの男と、と言われて、アーサーが自分のことを気に掛けてくれていたのだと気がついた。
「あの方は大学の先生だったそうで、ちょうど同じ専門だったので、私の研究分野について話そうと思ったんですが、上手く答えられなくて……」
 頭がまっしろになった時のことを思い出し、悔しくて一瞬言葉に詰まった。
「……私の英語力はまだまだダメですね」
「そりゃ、専門分野について英語で話そうなんて、準備でもしてないと無理だろ。国際学会の時は用意した原稿読むのでいっぱいいっぱいだっただろうが、お前」
「はぁ……」
「前に言ったろう、言語は意思疎通のためのツールだって。さっきの男は別にお前と専門的な話がしたかったわけじゃない。共通の話題を見つけて、コミュニケーションをとりたかっただけだ。大事なのは会話をしようという意志を相手に示すことだろ。お前が一生懸命だったのは相手に伝わってたと思うぞ」
 ぶっきらぼうな言葉ながら、慰めようとしてくれているのは分る。それでも悔しいと思うのは、自意識やプライドが高すぎるのだろうか。
 なぜ、あの時何も言えなかったのだろう。自分がやってきた仕事なのだから、片言でも――
「そういえばアンが、お前が来たから最高のサンデーローストを作るって張り切ってたぞ。ヨークシャー牛のローストビーフを焼くそうだ」
 ぼんやりと黙考に沈みかけていた菊は、明るいアーサーの声に物思いから覚めた。
「サンデーローストですか。ええと、正式なディナーのことですよね」
「ああ、帰ったらそろそろ焼けてるだろうな。着替えずそのままでいいからな」
 そう言ってヨークシャー牛の説明をしはじめるアーサーに、重くなっていた気持ちを振り払った。
 
 
 皆で揃って食べたディナーは、とても美味しかった。綺麗なミィディアムに焼き上げたローストビーフに、火の通りが完璧な付け合わせ野菜。グレービーソースもしっかりとした味で、締め括りの甘すぎるほど甘いデザートは苦しかったが、なんとか半分は食べた。
 のんびり三時間以上酒を飲みながら食べる食事は確かに楽しかったが、日本語が分らないアンが一緒ということで、一生懸命英語を使って会話に参加しようとしたせいなのか、食後に庭に出た時にはすっかり気疲れしてしまっていた。
「だから日本語で良いって言っただろう」と、怒った顔をするアーサーに、無理に笑う。
「ちょっと酔いがまわっただけですから」
 頭がぼんやりしているのはきっとワインを何種類も飲んだせいだろう。
「お前、なんか顔色が悪いな。少し寝てろ」
「はぁ、眠くはないのですが」
「いいから横になっとけ。上掛けを取ってくる」
 無理矢理長椅子(カウチ)に座らされ困惑する菊を残し、アーサーは屋敷に入っていく。
 眠くはない。そう思っていたのに、目蓋を閉じ横になれば眠りはすぐに訪れた。
 短い眠りの中で夢を見た。
 暗い闇の中でゴオオオと風が鳴っている。
 寒い、凍えてしまう、そう思っても、為す術がなく自分は立ちつくしている。
 何も見えない深い闇。上下も分らない空間の中、しかしドクドクドクと脈打つ己の心臓の音だけはやけにリアルで、全身が冷たくガタガタ震える。
 寒い。
 苦しい。
 怖い。
 底知れぬ暗闇に呑まれ、何を考えることもできず、ただただ冷たい恐怖に意識が覆い尽くされそうになる。このままどこまでも闇に沈むのか、薄らと残った意識で思った時だった。
 胸に強い衝撃を受けた。
 ゴホッゴホッ、と咳き込むと同時に、ぐわっと明るい光が意識の中に流れ込んでくる。
 呆然として眼を開けると、夏の陽光が溢れたイギリスの初夏の庭にいた。
 深い水の中で息を止め、苦しさにもがき水面に上がってきたような感覚で、必死に息を吐く。
 思わず頭に手をやる。髪が濡れていないのに違和感を覚えるくらいだ。
 その手が震えているのに気がついた。目の前に翳しても、まだ震えが止まらない。
「ヴニャー……」
「……ブランキーさん」
 不意に間近で聞こえた鳴き声に眼を向ければ、就寝時にやってくる時以外、殆ど見かけない猫がいつの間にか菊の胸の上に乗っていた。宝石のように美しく、どこか不思議な瞳を細め、小さく鳴く。
 先ほどの衝撃は、彼女が飛び乗ったせいなのだろう。
 悪夢から救い出してくれたことに感謝して、艶やかな毛並みをそろっと撫でる。温かく柔らかな猫を撫でているうちに、手の震えは治まった。
 暫くして近づいてきた足音は、アーサーだった。彼の手にあるブランケットで、あれがほんの短い夢だったのだと知った。
「なんだ、珍しいな」
 菊の胸の上のブランキーに首を傾げたアーサーは、
「いいから横になっとけ」
 と起き上がろうとする菊を押しとどめる。
 眠気はあの悪夢で吹き飛んで、今はむしろ眠りたくない気分だっただが、大人しくブランケットを受け取り、ブランキーの上からかける。菊の胸の上で丸くなった猫は、嫌がる様子もなくそのままだった。
 ぼんやりブランケット越しに猫を撫でていると、おもむろにアーサーが切り出した。
「明日からレイクディストリクトへ行かないか?」
「レイクディストリクト……と言いますと、湖水地方のことですか?」
「ああ、日本人には人気あるんだろ。行きたいかと思ってキャンセル待ちしてた宿から、今空いたと連絡があったんだ」
 急に降ってわいた話は現実感がなく黙り込むと、アーサーが焦った声を出す。
「い、嫌なら別に無理にとは言わないが……」
「いえ、嫌というわけでは」
 明日からと言われ、頭がついてこないだけだった。
 テラスの眼下に広がる庭を眺める。色とりどりに咲いた薔薇。アーサーが毎日嬉しそうにその手入れをしているのを思い出す。庭仕事の時も服装を崩さない彼が、丁寧に花の選定をしている姿を見るのが菊も好きだった。彼はこの屋敷での滞在を楽しんでいたのではなかったのだろうか。
「アーサーさんはそれでいいんですか?」
「ああ、レイクは久しぶりだしな。こっからだと三時間くらいのものだから、朝出れば昼には着くだろう」
「そうですか」
 本当にいいのだろうか、と思えど、考えることすら酷く億劫で眼を瞑る。
 アーサーが良いというのなら、それも悪くないのかも知れない。そう、思った。
 




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