英国旅行記


10
 
 
 
 
 明日の朝は早いから、と辺りが暗くなった頃には部屋に引き上げた。
 荷造りを済まし、風呂をゆっくり使う。寝る段になって時計を確かめ、まだ十一時半だと落胆した菊は、自分が無意識のうちにベッドに入るのを引き延ばそうとしていたことに気づく。
 夕方に見た夢を、自分は畏れているのだった。あの夢を、また見るのではないか。
 寒い、苦しいという感情が渦巻き、そして圧倒的な絶望感に覆いつくされる恐ろしい夢。
 その感覚が甦り、棒立ちになる。
 立ち眩みのような浮遊感に襲われ、しゃがみ込みそうになった菊の視界に、動くものが飛び込んできた。
 パタンパタンと揺れるブランキーの尻尾。思わずふらふらと近寄り、毛並みを撫でると強ばった感覚が戻ってきた。
 抱きしめていればよく眠れるかも知れない。そう考え抱き上げるが、つれない猫は腕から逃げ出す。
 だがベッドの上に着地して、そのまま足元で丸くなった。腕の中でなければいいらしい。
 ぱたんぱたんとまた揺れはじめる尻尾を見ていると、何を自分は畏れているのか、とふとおかしくなった。
 ただの夢ごときに、こうまで神経質になることはないだろう。
 大丈夫だ、同じ夢などそう簡単に見られない。
 そう自分に言い聞かせ布団に入った。
 
 
 
 
 目覚めは唐突だった。
 暗闇に浮き上がる金。
 額に感じた温もりがすっと離れていく。
「アーサーさん……」
 囁いたつもりの声は、己のものとは思えぬほど嗄れていて、喉に痰が絡まっているようだ。
 枕元のランプをつけたアーサーが、水差しから水を注ぎ差しだす。
 困ったように眉を寄せるアーサーはガウン姿だった。恐らくまだ夜は深い。
「キッチンへ行こうと思ったら、扉をひっかく音に気づいて、ブランキーを出そうと思ったんだ。普段はこの部屋の扉を開けて出入り自由にしてるから、外に出たいんじゃないかと思ってな。そしたら、その、お前が魘されてたから……」
「そうですか」
 水を飲み、横になって眼を閉じると疲労が襲ってきた。前髪をかきあげ、額にあてられた手のひらが心地よい。さきほどの温もりはこの手だったのだろう。
「夢を――」
 そう言いかけた菊は、続く言葉が見つからないことに気付き、言葉を止めた。
 夢を見ていたのだと思う。だが、覗き込む記憶の中はからっぽで、どんな夢を見ていたのか分からない。
 またあの夢を――その考えと共にぞくりと恐怖が忍び込み、菊を身震いさせる。
 宥めるように何度も額から髪を撫でつけられ、強ばりが溶けた。
「覚えてないけど、多分嫌な夢だったんだと思います」
「覚えてねぇならその程度の夢だ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
「手――」
 手を握っていて欲しい。
 子供じみた願いを口にするまでもなく。
 アーサーは何も言わず、菊の手を握り、両手で包み込むようにして暖めてくれた。てのひらに寝汗をかいているのではないだろうか、そんな微かな羞じらいも、大きな手の包み込む温もりに甘く解ける。
「大丈夫だ、もう夢は見ない」
 眠りの淵に落ちていきながら、受け取った静かな囁きを、菊は信じた。
 
 朝まで夢は見なかった。




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