英国旅行記


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 朝食をしっかり食べたというのに、林檎や水、チョコレート菓子まで持たせようとするジェイムスは、
「帰って来たくなったらいつでもいいから連絡をよこしてくれ。アーサー抜きでも大歓迎だからね」
 と車に乗り込む段になっても、菊に繰り返した。
 昨夜、湖水地方に行くという話を切り出した時から、まだここに来て一週間も経っていないのに、と残念がってくれたのだった。
「ありがとうございます。でもアーサーさん抜きではさすがに……」
「別に俺がいなくても行くのは勝手だ」
 そう言いながらもぷいっと横を向くアーサーの姿に、ジェイムスと顔を合せてこっそり笑う。
「会えて嬉しかったよ。神様の加護がありますように」
 握手ではなく、父親が息子にするように抱き締めて背中を叩いたジェイムスに、車の中からも手を振る。
「 May god be with you ですか……」
 別れ際に言われた言葉を呟く。教会で会った人達も、その言葉を使っていた。
「こちらの人は、別れの挨拶にそう言うんですね」
「年寄りばかりの村だからな。……ところで道が広くなったら運転を変わってくれないか」
 いきなりの言葉に、「えっ」と裏返った声を出す。
「わ、私が、運転ですか?」
「湖水(レイク)まで三時間くらいかかるんだ。まさか全部俺に運転しろっていうんじゃねぇよな?」
 確かに運転はしなければならないだろうと腹積もりはしていたが、いきなりすぎる。
「借りる時はアーサーさんが運転するって言ったじゃないですか」
「俺もするけど、一回くらい経験しておいてもいいだろう」
 ささやかな抵抗に返ってきたもっともな言葉に反論できず、広い道路の路肩で交代することになる。
 車線の向きも、運転席の場所も日本と変わらない。緊張するのは交差点が信号ではなく、ラウンドアバウトという一方通行の円形になっているシステムだが、昨日助手席で見た限りでは思い描いていたより簡単そうだったので、どうにかなるだろう。
 アーサーから一通りの説明を受け、慎重に車を動かし始める。
「アーサーさんの大学生活ってどんな感じですか」
 前後に車がない峠道をのんびり走らせるのは楽しく、運転に余裕が出てきた菊は訊ねた。
「勉強勉強勉強、ってとこだ。忙しい時は一週間で五十冊読んで論文にまとめないといけないこともあるし、グループディスカッションも面倒だしな」
「寮に入ってるんでしたっけ?」
「ああ、所属するコレッジは専攻に関係ないから、一緒の寮にいるのは心理学だの医学だの建築だの専攻はばらばらだ。国籍も色々だな」
 イギリス屈指の名門大学の複雑な仕組みの説明や、図書館やホールだけでなくバーまであるというコレッジの設備、家族単位のように過ごしているという寮の最上階で、日曜の晩は皆で酒を飲みながら語り合うという話を聞くのはおもしろかった。
 話をしている間に峠を通り過ぎ、小さな町を通るうちに車の数は増えていく。
 なんとか高速道路まで合流して、途中のパーキングで運転を代わった。
 やれやれと助手席に座り、カーナビを見た菊は「あれ?」と首を傾げた。
「ええと、アーサーさん、行くのはレイクディストリクトでしたよね?方向違いませんか?」
「ああ、荷物を拾って行くんだ」
 何かと訊ねる菊の質問をはぐらかすアーサーが向かうのは、どうやら飛行場のようだった。
 マンチェスター空港の乗車場に車が近づいた時、アーサーの言うところの荷物が何であるか分った。
 派手な柄のシャツに白い麻のジャケットを羽織り、薄い色のサングラスを掛けて立つ男は、その場にいる誰よりも目立っていた。同じような金髪男性は他にもいるのに、皆彼に注目しているのは華やかな雰囲気のためだろう。
 その彼は、眼を丸くする菊にウィンクをすると車の後部座席に乗り込み、座席越しに抱き締めてくる。
「 Bonjour! 菊ちゃん、今日も可愛いね!」
「フランシスさん……」
 何、というよりは、誰であるし、荷物という言葉はそもからしておかしいだろう。フランシスが来るなら、どうしてそう言ってくれなかったのか。非難を含んだ視線をアーサーに向ければ、
「本当に来たのか」
 とあまり嬉しそうな顔をしていない。
「そりゃ勿論。いやー、アーサーに連絡したらさ、ちょうど菊ちゃんが遊びに来てるって聞いて、お兄さんびっくりして飛んで来ちゃった」
 そういえばこの二人は幼なじみのくせに会えば喧嘩ばかりしているのだった。こと、日本のアニメや漫画にフランシスが興味を持ち始め菊と仲良くし始めるようになってからは、仲間はずれにされていると感じるのか、不機嫌になることが多い。
 のんびりとしたバカンスが一転、急に波乱の予感がひしひしとしはじめるが、フランシスに会えるのは嬉しいし、フランスからわざわざ来てくれるなど、感謝をせねばならないだろう。
「ええと、お久しぶりです。わざわざありがとうございます」
「はい、お久しぶり。会えて嬉しいよ」
 菊ににっこり笑いかけたフランシスは、アーサーに向かっては小言を言う。
「しっかし遅いよ、アーサー。いったいどれだけ待たせんの。せめて着く時間くらい教えてくれたら、中のカフェででも待てたのにさ。といってもろくな店なかったけど」
「ここまで運転してきたの、菊だぞ」
「お待たせして大変申し訳ありませんでした。フランシスさんをお待たせしているとは知らなかったとはいえ、とんだご無礼――」
「いやいや、菊ちゃんは悪くないからね、悪いのはこの眉毛と車だから。こんなダッサイ車じゃなくて、うちのルノーにでも乗ってりゃ、もっと早く着けたってお兄さん、分ってるから」
 フランス人らしくしっかりイギリスを小馬鹿にした発言でアーサーを突ついたフランシスは、
「で、菊ちゃんの休みはいつまでなの?」
 と矛先を変えた。




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