英国旅行記


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「用意はいいか、菊?」
 ノックの音とともにかけられた声に、「どうぞ」と応えれば、こちらは準備が終わったアーサーが入ってきた。彼が足を踏み入れた瞬間、目を奪われる。
 瞳の色に合わせた緑のアスコットタイに濃紺の英国的スリーピース姿は、彼の貴族的な美貌を際立たせていた。
 姿勢良く立ち、検分する真剣な眼差しを向けるアーサーの金色の髪を、窓から溢れる朝の眩しい陽光がきらきらと輝かせている。髪だけでなく、全身がうっすら光を放つかに見えるのは、被う体毛が金色のせいか。
 視線を合わせるのも気後れがする美しさで、なんだか居たたまれないような気恥ずかしいようなそわそわする感情に落ち着かず、視線を彷徨わせた。
「なんとかできたようなできないような……」
「よく似合ってるぞ」
 その言葉に、初めて着るスーツの袖や裾を落ち着きなく引っ張っていた菊はほっとして思わず笑顔を浮かべた。
「よかったら教会へ行かないか」と誘われた朝食の場では、スーツを用意していないからと断ったのだが、「それくらい用意してある」と言われ出されたのが、このスーツだったのだ。
 背広の寸法など伝えた覚えがないが、裄丈も裾の長さも誂えたようにぴったりということは、菊のために用意された服なのだろう。遺産だかなんだかで、自分で動かせる金があるというアーサーは、たまに菊の常識を超えた行動で驚かせる。
「髪が絡んでる」
「どこです……か」
 頭にやった手がアーサーの伸ばした指に触れ、心臓が跳ねる。さりげなくその指を避けるように手を下ろした。
 彼の指に触れられると、胸がドキドキする。そんな現象に気がついたのは、昨日のことだ。初めての気持ちに、だが不思議と動揺は感じなかった。
 自分の感情が化学変化のように、本人を置き去りにしてくるくると変わることに新鮮な驚きは感じるものの、それは嫌な感触ではない。むしろ心が甘く浮き立つような、ふわふわとした幸福感は心地よく、いつまでも浸っていたいとすら思う。
 恋なのだろうか、とぼんやり思う。
 確かにこの感情に強いて名前を付けるのならば、『恋』と呼ぶのが相応しいのかもしれない。
 けれども菊には、アーサーに対する肉体面での欲があるわけではないのだ。
 ただ傍にいたい。
 アーサーが笑顔でいれば嬉しい、それだけだ。
 そもからして、いつからこの気持ちが芽生えたのかと記憶を辿り、行き着くのはウォーキングで手を温めてもらった小川の辺と、その後連れて行ってもらったアーサーお気に入りの場所。
『手を繋ぐ』ことは、美しい風景と結びついている。
 恐らく、彼の手は、自分の中の美しいものの象徴となっているのだろう。
 この感情はきっと、美しいものを喜び感動する気持ちが、アーサーという存在によってより強く顕われただけのことだ。
 菊はそう思うことにしたのだった。
「髪、おかしくないですか?」
「ああ、もう大丈夫だ」
 視線を合わせて、にっこり笑う。この煩い心臓の音が彼に聞こえていないことに感謝する。
 まぁ、アーサーさんが格好良すぎるのがいけないんですけどね、と菊は内心こっそり独りごちた。
 特に正装のアーサーは、近寄りがたく感じるほど美しい。いくら幼馴染みとはいえ、こうまでも美しい存在に触れられれば、感動し緊張するに決まっているというものだ。むしろ今まで無頓着でいられた己の感受性の鈍さがおかしいのだった。
 
 
 
 時間きっちりに教会に入ると、ちらちらと向けられる視線を感じた。
 説教が終わった後、アーサーと共に教会の外に出ると、牧師が声を掛けてくる。
 牧師と話しているアーサーの傍に立っていると、次々と色んな人が菊に近づいてきた。
 説教中に気付いていたことだが、この村の住人は、全員七十歳以上にみえる老齢だった。
 どうやら菊がアーサーの友人で、日本からの客ということは村中に知れ渡っており、皆珍しがって声をかけてくるようだ。
 いつの間にか菊は、多くの村人に取り囲まれていた。
 とはいえ、一々説明をしなくても、向こうから休暇の話題を持ち出してくれるので、会話には困らない。
「こんな田舎の村で若い人にはつまらないのではないかしら」
「いえ、とても綺麗な所で楽しいです」
「まだ暫くこちらに居られるのかしら?」
「休暇が終わるまではイギリスに滞在する予定ですが、大学の仕事があるのであまり長くは居られないと思います」
「まぁ、大学に勤めておられるのね?学生かと思っていましたわ」
 心底驚いた声を出す女性に、やはりか、と今度こそ苦笑いを浮かべる横から、男性が話しかけてきた。
「大学にお勤めですか、私も昔大学で少々教えていましてね、専門は政治学絡みの経済でした」
 おや、と驚き、視線を向けた老齢の男性は、シルクハットにモーニング姿の正装だ。
「私も同じようなことを研究しています」
「それは奇遇ですね。あなたの専門は何ですか?」
「ええと――」
 この間終わったプロジェクトを英語で説明しようとした菊は、不意に言葉に詰まった。
 どう表現すればいいのか、単語が見あたらない。自分の英語の引き出しの中の単語という単語全てが、頭の中にぶちまけられたような感覚に襲われる。その一つ一つ拾い上げても今使えると思える単語に行き当たらないまま、沈黙が落ちた。
 どうすればいい。なんと言えばいい。
 焦りで時間の感覚が麻痺し、永遠に続くかに思える沈黙に目眩にも似た感覚を覚える。
 何か言わなくては、でも何を――
「これは悪いことを聞いてしまいましたね。大学だと説明し辛い研究もありますからね」
 固まった菊を宥めるように、男性は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「……すみません」
 ああ、ダメだ。愛想笑いをして謝るなんて典型的な海外で馬鹿にされる日本人の悪癖だ。
 そう思えど、謝る言葉以外に何も自分の中から探し出せない。自分が不甲斐なくて泣きそうな気持ちになった菊の落ち込みを察したのか、傍にいた老婦人が不意に菊の手を握り、明るい声を出した。
「それよりもあなた、ベイクウェルのプディングはお食べになった?」
「え、ええ、美味しかったです」
「プディングもいいけれど、タルトもおすすめですよ。上にアイシングのシュガーがかかってね……」
「この辺りで景色が良いところといえば、そうね、ブラッドフィールドの……」
「ダーウェントもおすすめよ。あそこは世界遺産に指定された所だから…」
 菊にとっては祖母のような歳の女性達は、しょんぼりとした菊の気持ちを引き立てるように、代わる代わる話しかける。彼女たちの優しさに慰められ、どうにか笑みを浮かべながら話をしていると、アーサーが近づいてきた。
 周囲に短く挨拶すると、「帰るぞ、菊」と告げる。
「お会いできて嬉しかったです」
 反射的に頭を下げて、この習慣はこちらにはないのだったと慌てて顔を上げる菊を、老婦人の一人が抱きしめた。
「素敵なホリデーを過ごしてね」、「またお会いできると嬉しいわ」「お元気でね」
 口々に言葉をかけ、代わる代わる抱きしめてくれる彼女たちに、祖母の姿を見るようで、温かい気持ちになる。中には「神様のご加護がありますように」と頬にキスをしてくれる女性もいて、くすぐったい気持ちで笑顔が零れた。




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