英国旅行記


 7
 
 
 
 
 パブから出ると、空はからりと晴れていた。
「さて、そろそろ帰るとしようか」
「アーサーさん、無事に宿題が終わったでしょうか」
「彼は昔から君と過ごす時間が好きだからね、死にものぐるいで片付けて、今頃ご飯でも食べてるよ」
「はぁ」
 自信満々に言い切るジェイムスに、曖昧に頷く。
「今回の休暇も一ヶ月以上前から私の所に打診があって、どうやって誘おうか、そわそわしていたし、来ると決まってからも大騒ぎだったんだ。今日、君にお昼をいらないと言ったのも、折角の休暇を一人でも楽しんで欲しいと思ったからだよ。楽しんでいただけたかな」
 と冗談めかして訊ねるジェイムスに、「ええ、とても」と笑顔で答える。
「でも君はアーサーと過ごす方が楽しいだろうし、彼もそれを承知の上だ。だから何が何でも終わらせているはずだよ。彼は君のために本当にできる限りのことをしたいと思っているからね。それだけは忘れないでくれると嬉しいよ」
 笑顔の中に、真摯な色が見えた。何か大切なことを言われたような気がするが、それがなぜなのかは分らない。分らないでも覚えることだけはしておこうと、菊は「分りました」と答えた。
 
 
 午後からは予定通り、ウォーキングにでかけた。
 道幅にきっちり合わせて刈り込まれた木が、上方では枝を伸ばし、緑のトンネルとなった道を、車は走る。
 目的のフットパス入り口の道脇に車を停めると、装備を確かめた。リュックの中に入れたのは、水とチョコレート入りミントキャンディやトフィーキャラメルとタオル、そして地図にガイドブックと磁石。往復二時間の道だから軽装だ。
 石垣に掛けられた階段を上がり、家畜がいない圃場にうっすらと痕跡が残る道を辿る。羊は通れない狭さで作られた胸までの高さの石の間をすり抜けて森に入る。森の中はしんと静まりかえった無音だ。自分たちの足音も、踏みしめる緑に吸い込まれるようだった。
 途中、道しるべとなる標識はない。人が歩いた跡がある獣道のように細い道筋を歩く。時折磁石で方角を測り、地図で確かめた。なだらかな丘陵を横切るようにして森をたまに会話を交わしながら進むと、岩清水が集まってできた小さな奔流に突き当たった。
「ここが折り返し地点だ。少し休むか」
 疲れたか、と心配そうに訊ねるアーサーに、笑って首を振る。もう一時間歩いたのか、と驚いて腕時計を確かめれば、確かにそのくらいの時間が過ぎている。景色に見とれ、時間の感覚を失っていたようだ。
 跪いて水の中に手を浸す。冷たい水が気持ち良くてずっとそのままでいると、「馬鹿、冷えるだろ」とアーサーが手を掴んで引っ張り出した。
 体温などないような彼の白磁の肌は、意外なほど熱量が高い。冷えた手にはそのぬくみが気持ちがよい。握られた手だけでなく胸もぽかぽかと温かくなる。
 その暖かさのままに声を出して笑う。驚いた顔を見せたアーサーも、照れくさそうに笑みを浮かべた。
 首を曲げて空を仰げば、高く遠く澄んだ空がある。
 夏の陽光は光の粒となり、葉の一枚一枚を輝かせる。からりと乾いた空気は澄んで、全てが輝いて見えた。
「綺麗な場所ですね」
「そうだな」
「本当に綺麗です」
 満面の笑みで繰り返す菊に、アーサーは何か言いかけたように口を開き、一瞬の間の後、
「気に入ったんなら本でも持ってくりゃよかったな」
 と視線を逸らして呟いた。
 ゆっくりと来た道を戻る。
 軽い運動の後のドライブは静かだった。
 心地よい疲労に少しぼんやりしていた菊が、行きと違うルートだと気がついたのは、九十九折りで坂道を上がろうとした時だ。
 どこへ向かっているのだろう。いつしか車は道路から外れ、細い田舎道に入っている。細い道をゆっくりと登り、やがて丘の頂上の手前、少し道が広くなった所で止まった。
 何も言わず車から出るアーサーに続いて車を降りながら、辺りを見回す。振り向く頂上への斜面は、この辺り一帯どこにでもある緑の圃場で、道の反対を挟んだ下も同じ緑が広がっている。
 特に何があるわけでもなさそうだ、と考える菊にアーサーが振り返った。
「ここから見える風景がこの周辺で俺が一番好きな景色だ。俺はこの国の中で最も美しい景色の一つだと思ってる」
 菊は視線を向けた。
 それはなんでもない、ありふれた風景だった。
 丘陵の中腹から見下ろす椀状の盆地(デイル)には、石壁と生け垣で区切られた圃場と、疎らな家がある。
 地平線の先まで続いているかに見える緑に雲の影が落ち、ゆっくりと動いていく。
 数え切れないほどの緑の種類で溢れる風景に色をつけるのは、点在する羊の白と石造りの家、そして斜め前に見える山稜の中腹にある二つの湖面のきらめきだ。
 人を圧倒するような美はこの景色の中にはない。
 けれども眼下に広がる世界は美しかった。
 どんな讃辞も相応しくない気がして、言葉の代わりに手を握った。
 感謝をこめて微笑む。
 驚いたように瞠った翠が、照れたように甘く眇められる。その輝きは宝石や目の前に広がるどの緑よりも綺麗だと思った。




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