英国旅行記


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 車で十分くらい行った町の手前の住宅道を奥に進み、廃線になった鉄道の煉瓦造りの高架下で車は止る。
 大きなリュックを背負い、使い捨てのゴム手袋をはめたジェイムスは、「ここからは歩きだよ」と道の先を歩き始めた。
 車がやっと一台通れるような道の両側は、岩を積んだ石垣の上に細い鉄線で囲った圃場だ。緩い坂道を登って行くと、やがて建物が見えてきた。
「見ていてごらん」
 そう言うとジェイムスは両手を口に当て、「フォーッフォー」と高い呼び声を上げた。近くの小山で木霊のように響く音が消えても彼は動かない。何が起こるのだろう。見守っていると、やがて建物から影が飛び出してきた。
 跳ねるように駆けてくるのは毛並みの良い茶トラの猫だ。眼を細め、ジェイムスの足元にすり寄ってくる。
「ほら来た、良い子だ。餌を持ってきたよ」
 優しい声を出すジェイムスに、茶トラは分っているのかニャーニャー鳴く。
「近づいても大丈夫だよ。ただびっくりさせないようにゆっくりとね」
 そう言われ、そろりと近づいた菊は、手前でしゃがみ、そっと手を差し出した。確かめるように鼻を近づけ匂いを嗅ぐ猫の背中をゆっくりと撫でてみる。嫌がる様子を見せない姿に、ジェイムスと顔を合せほっとして微笑む。
「あの廃屋に今は五匹の猫が住んでるんだ。皆元気だといいんだが」
「あなたが飼ってるんですか?」
「私だけじゃないよ。ここは昔、農場でね。主人がいなくなって廃屋になった時、その時飼っていた猫だけが残されたんだ。あの当時は二十匹以上いたらしい。それ以来町の有志が餌を持ち寄ってるんだよ。数年前には亡くなった資産家の女性が、この猫たちにお金を残してくれたから、多分イギリスで一番金持ちの猫なんじゃないかな」
 薄暗い廃屋を覗き込んだ彼は、そこに二匹の猫を見つけ、ほっとしたように餌をやりはじめる。餌は新鮮な茹でささみとキャットフードを混ぜたものだ。
「一部では有名な猫だから、遠方から来たウォーキングやサイクリング客が猫の餌をこうやって置いていってくれることもある」
 そう言って廃屋の梁に置いてあった猫缶を見せたジェイムスは、しかし他の二匹はどこへ行ったんだろうと心配そうな顔をした。
 残りの猫を最後まで心配していたジェイムスも、猫たちが餌を食べ終えると諦めて彼らに別れの挨拶を告げた。
 
 折角だからとその後は、ドライブすることになった。自然公園に指定されているだけあり、家は疎らで豊かな緑が続く。国道は木立の中を走り、その先には牧場が広がり、なだらかな山稜が続いている。道と緑地の狭間の生け垣(ヘッジ)に、柔らかい色の花が混じっているのが眼に心地よい。
 すっきりとしない曇り空の下でこれだけ美しいのだ。晴れたらどんなにか美しいことだろう。
 地元産のアイスクリームの販売で大成功した農家や、売家になっている家の価格、冬の道の凍結状態など、ジェイムスの語る地元ならではの話は興味深い。
「あれがチャッツワースだよ」
 と運転をしているジェイムスが指を指した。
 斜め前方に広大な屋敷、いや城が見える。この風景には既視感があった。
「なんだか見たことがある気がします」
「有名な館だからね。映画やドラマの撮影でも使われているし、ガイドブックにも必ず載っているよ」
「いえ、そうではなくて……」と言いかけた言葉を、菊は止めた。子供の頃からイギリスに何度も来ている。この近くを通りかかった可能性もあった。
 遠ざかっていく城を眺めながら、ぼんやり思いを馳せている菊に、ジェイムスが訊ねた。
「行ってみたいかい?」
「まぁ、興味がないわけではないのですが……」
 特に中が見たいわけではない。ただ、なんとなく気になるというだけだった。
「あそこは見て回ろうと思ったら時間が掛かるからね。庭も有名だからそこだけ見るという手もあるが、庭だけでも入場料がかかるよ。我々の屋敷の庭もそれなりに見れるものだから、わざわざ庭だけなら金を払って見なくてもいいかもしれないね」
 控えめな自邸への言葉の中に、強いプライドを感じ、菊は微笑んだ。
「さて、家に戻って食べてもいいが、恐らくアーサーのレポートはまだ終わってないだろうから、昼を食べていかないかい」
 そう言ってジェイムスが車を向けたのは、リームワースの中のパブだった。
 皆ご近所同士で顔見知りなのか、カウンターで酒を飲んでいる客達は、ジェイムスと後ろについて行く菊に口々に挨拶をしてくれる。
 本日のスープとパンのセットを頼むと、ジェイムスが野菜も付けるように頼んでくれた。
 さほど待たないうちに料理が出てくる。西洋ネギとじゃがいものスープの横に分厚いフランスパンがあり、温野菜の小皿が別に付いてきた。ジェイムスには握り拳二個分くらいの巨大なじゃがいもをオーブンで焼いたジャケットポテトだ。
 スープをそのまま食べようとした菊を、塩胡椒をするようにとジェイムスは止める。少し塩を振ってもぼんやりした味に、本当に味が薄いのだと苦笑する。
 しかしそれよりも困ったのは野菜だった。繊維まで箸で切れるくらい柔らかいのは、きっと規定の三倍くらい長く茹でたのだろう。それをそのまま出されて、どう食べろというのだろうか。せめてドレッシングでもないのか、と思えどそんなものは出てこない。
 苦行をこなす勢いで口に運ぶ菊に気付いたのだろ。ジェイムスはおかしそうな顔をした。
「口に合わなければ残せばいい」
「はぁ」
「イギリス料理が不味い理由は定かではないが、水が硬水だから野菜が苦く、料理の味も変化するせいとも言われるし、人種的に味蕾の数が、ああ、分るかな味を知覚する舌の器官だ、それが少ないからだとも言われている。いずれにせよ、伝統をこよなく愛し、変化を嫌うイギリス人は食べ慣れたものでないと落ち着かない。その結果がお袋の味のこの野菜というわけだ」
「Hey、ジェイムス、お国自慢の時間かい?お若いの、それはイギリス魂を養成するための必需品さ。この料理が忍耐強さと諦めというこの国で生きていくための精神を作るんだ」
 昼間から酒を入れてご機嫌になっている老人は、ばんばんと菊の背中を叩くと、呆れ顔で窘める周囲に呼ばれて去っていく。
「……忍耐と諦めですか」
「まぁもっとも最近の若者はチャレンジ精神が旺盛だから、料理の質も上がってきているというけどね」
 料理の質云々よりも、まずは献立からして問題なのではなかろうか。パンとじゃがいもという炭水化物だらけの食事では、栄養バランスが甚だしく不安だ。
 まさかアーサーさんもこんな食事を毎日してるんじゃないでしょうね、うっすらと浮かんだ恐ろしい考えを、頭を振って菊は追い出した。




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