英国旅行記


 5
 
 
 
 
「菊、ちょっといいか?」
 夕食後、控えめなノック音にドアを開けると、アーサーの姿があった。
「どうされましたか、アーサーさん」
「今時間が大丈夫なら、明日の予定を相談したいと思ったんだが良いか?」
「明日の予定ですか。ええ、もちろんです」
 確か明日はウォーキングをと夕食の時に話していた筈だが、そういえば靴を貸してもらうという話になっていた気がする。しかしそれは関係がなかったようで、導かれた先はライブラリだった。
 さほど広くない部屋の四方の壁が作り付けの本棚で蔽われている。並ぶのは、インテリアとして飾ってあるのではあるまいかとの穿った考えすら浮かぶ装飾がたっぷりと施されたハードカバーが殆どだが、読み込まれたペーパーバックやそっけない専門書もちらほら混じっている。
 興味深く見回す菊の横で、棚の一角を漁り始めたアーサーは次々と薄手のペーパーバックを書見机に重ね始めた。なんだろうと覗き込むと、どれもウォーキングの本のようだ。
「この辺りのフットパスが載ってる本だ。この中から明日歩く道を決めようぜ」
「……はぁ」
 一番上にある本を手に取るが、地誌学を含む随分と専門的な内容に恐れをなし、本の山の中でも一番読みやすそうな「初心者のための十五のコース」や「厳選した十のフットパス」などという題名の本へ逃げた。これならなんとか読める。
 道の説明は面倒なので読み飛ばし、分る単語だけ拾っていった菊は、
「これなんかどうでしょうか?」
 とアーサーに声を掛けた。
 圃場を横切るという言葉と、森の中の小川という単語に惹かれたのだ。
「ああ、この辺りなら景色も綺麗だからいいんじゃないのか。所要時間は……二時間か。ランチはサンドウィッチをアンに頼んでおけばいいし、そうだ、牧場で飼っている犬をつれていったら喜ぶかもしれないな。この分だと晴れるだろうし……」
 計画を練っていくアーサーは、実に楽しそうだ。
 イギリス人はウォーキングを好むと言うが、彼もその多分に漏れないようである。今日一日町の観光をして、その後この屋敷の探検や庭で夕涼みをするだけでも充分に楽しかったのだが、アーサーはうずうずしていたのだろう。なにしろこんなに良い天気だ、と小さい明かり採りの窓から綺麗な夕焼けの空を眺める。菊の体調を気遣って今日一日我慢してくれた彼のためにも、明日も晴れれば良いと願った。
 
 
 しかし翌朝、菊がテラスに出ると、昨日までの抜けるような青空は一転、薄い雲に蔽われすっきりしない曇り模様で、食卓の雰囲気はそれよりも更にどんよりと重苦しいものだった。
 仏頂面を絵に描いたようなアーサーはよほど機嫌が悪いのだろう。菊の顔を見てもにこりともしない。傍らのジェイムスも困り顔だ。
「おはようございます」
 声を掛けると、二人とも返事はするものの、声の調子が恐ろしく低い。
「どうかしたのですか?」
「いや、なんでもない」
「ボスから課題の再提出を求められたんだよ」
 重なる声は違う言葉を発したが、真偽は問うまでもない。
「……ジェイムス、お前どっちの味方だ?」
「私は真面目に仕事をする者の味方だよ」
「俺は休暇中だ!夏休みだ!休暇中は仕事をしなくていいというのは、保証された権利だろ!」
「労働者にはね。でも君は労働者じゃないだろう」
「だって今日はこいつとウォーキングの約束をしてるんだぞ、百歩譲ってもレポートを書くのはこいつとの約束の後だ!」
 とんでもないことを言い出すアーサーと、ちらりと向けられたジェイムスの視線に焦った菊は、慌てて口を挟んだ。
「アーサーさん、アーサーさん、私を言い訳の道具にしないで下さい」
「なんだよそれ!菊はウォーキングを楽しみにしてたんじゃないのかよ」
 そう言い募る彼はよほど興奮しているのか、仄かに眦が赤い。これではまるで癇癪を起こす駄々っ子だ。
 菊の前では格好を付けたがっているのか、普段は澄まして貴族然としている彼のこんな姿は珍しい。
 とはいえ、そこまでして必死で守ろうとしているのが、自分との時間だと思えばなにやらくすぐったく嬉しいような心持ちになる。その感覚のままに、菊は柔らかい声を出した。
「今日の計画を楽しみにしていたのは私も同じです。でもウォーキングは逃げませんよ。今ここで無理を押して行くよりも、レポートを片付けて行った方が断然楽しめます」
 黙り込むアーサーもそれは分っているのだろう。基本的に真面目で矜持の高い彼は、きっと自分が言っている無茶も承知していて、その子供じみた我儘を恥じてもいるはずだ。
「アーサーさんのレポートが終わるまで、待っています。それに台所を貸してもらえれば、アーサーさんの好きな物を昼ご飯で作ります。紅茶はアーサーさんの方が美味しく淹れられるからお任せしますけど、おやつは私が――」
「いい」
 むっすりとした顔でアーサーは短く答えた。
「別に昼飯なんか作ってもらわなくてもいい。お前は好きなことしてろよ」
「でも……」
「だったら菊は私に付き合ってくれないか?羊の世話が終わったら、午前中のうちに猫の餌やりに行こうと思っていたんだ」
 思いがけない提案に二人の顔を見比べるが、アーサーはそっぽを向いたままで、どう思っているのか分らない。返事に窮する様子を見て取ったのだろう。
「午前中、菊は私に付合って、その間にアーサーはレポートを片付ける。それからウォーキングに行けばいい。なにしろ一日は長いんだ」
 それでいいかい、と確認をするジェイムスに、アーサーは「分った」と短く返す。本当に放っておいていいのだろうか。休み返上でくさっている彼にせめて食事やおやつを出せたらと思うし、自分なら傍にいてもらえるだけでも嬉しいと思うのだが。
 どうしたものかと逡巡し返事ができずにいたものの、
「アーサーも君の姿があると気がせくだろうからね」
 そうまで言われると、否は返せなかった。
 




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