英国旅行記


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 翌朝の目覚めは四時だった。
 夜中の三時に起きてしまった昨日よりは徐々に時差ボケが解消されているのだろうが、今ここで起きてしまうといつまでも治らないだろう。
 すっかり覚醒した頭をつとめて働かせないようにぼーっと寝たまま動かずにいる。そうするうちにいつの間にか眠っていたようで、カリカリという音にはっと気がついた時には、時計は九時を廻っていた。
 何の音だと眼をやれば、ドアを開けろと言うように猫がしきりにドアをひっかいている。慌てて開けると、飛び出していった。どうやら出たくてたまらなかったようだ。
 ふかふかの可愛い猫さまなのに、閉め出したり閉じ込めたりで嫌われてないだろうか。ぼんやり考えるが、そんなことをしている暇はないのだと我に返る。
 大急ぎで顔を洗い、身支度を調えてテラスへ向かうと、アーサーは新聞に落としていた視線を上げた。
「おはよう、よく眠れたか?」
「おはようございます。すみません、うっかり寝過ごしました」
 眠れたなら良かった、と頷く彼は、読んでいた新聞を後ろのゴミ箱に放り入れる。
「あの、気にせず読まれて良いのですよ」
「別に暇つぶしに読んでいただけだ」
「はぁ」
 政治経済が専門の大学院生なのに暇つぶしなどと言っていていいのだろうかと思えど、二人で居る時はこの休暇に専念すると態度で示してくれているようで、こっそり嬉しくなった。
「少し考えたんだがな、今日はこの近くの町に行ってみないか。ずっと移動続きだったし、いきなりウォーキングよりは少しのんびりした方がいいんじゃないかと思う」
 前評判通りとても美味しい朝食を食べている最中に、アーサーが切り出した。
「そこは何かの観光地なんですか?」
「菓子が有名な町なんだ。この辺りに来る観光客はとりあえずそこに立ち寄るな。まぁそれなりに人気があるプディングだから、気に入るかもしれないぞ」
「楽しみです」
 人気のプディングとはどんなものなのだろう。
 カリカリに焼き揚げたポテトのおかわりをもらいながら、デザートを楽しみにするのもいかがなものかとは思うが、新しい食への好奇心で胸がわくわくするのは止められなかった。
 
 
 屋敷からさほど遠くない距離に、目的の町ベイクウェルはあった。
 入り口になっている小川にかかる石橋を超えれば、すぐに中心地になる小さな町だ。平日の昼間というのに、観光客と思しき姿がそこかしこにあり、行き交う車も多い。
 店をひやかしつつ橋へ向かおうということになり、チャリティショップや骨董品店、絵はがきなどを売る土産物屋に入ったりしながら水鳥が泳ぐ川に出ると、折り返して大通りを街中に向かった。
 先ほどは通らなかった路地にティールームの看板を見つけ、Since1734という文字に驚く。
「これって二五〇年以上続いてる、古い店だっていうことですよね」
「そうだな。入ってみるか?」
 階段を上がった二階にあるティールームは、普通のアパートメントの一室のような大通りに面した部屋が二間続いている。
 人のいない奥の部屋の窓側に陣取って、名物というベイクウェルプディングを頼み、窓下を眺めていると、アジア系はおろか有色人種もいないことに気がつく。楽しそうに観光をしているのは、イギリス人と思しき中高年の夫婦連ればかりだ。
 外国人がさほど来ず、観光地化されていないけれど観光地というこの町は、イギリスらしい雰囲気を味わうにはいいのかもしれない。
 そんなことを考えていると、紅茶が運ばれてきた。
 アーサーが紅茶を注いでいると、目的のベイクウェルプディングも運ばれてきたが、思い描いていたのとは違う代物に、菊は内心首を傾げた。微かな表情の変化に気付いたのだろう、アーサーは人が悪そうな笑みを浮かべる。
「お前、日本のプリンと勘違いしてただろう。これはプリンじゃなくてプディングだ。ヨークシャープディング、食べたことあるだろう」
「あー!そういえば!」
「ヨークシャープディングに、中身を詰めたものだぞ」
 柔らかい特大のシュークリームの皮をぺちゃんこにして、タルト台のようにした形のヨークシャープディングは、ローストビーフの付け合わせによく出てくる。
 この形状、見たことがある、と暫し考え思い出した。マカオや香港の名物、エッグタルトだ。あれを三倍くらい大きくしたら見た目はそのままベイクウェルプディングになる。
 味はどうだろうと、一口食べてみると、想像していたよりはあっさりとした味だった。
 切り進んでいくと底に赤いジャムが現れてくる。木苺のジャムなのか仄かに甘酸っぱく、掛けられているミルクセーキを彷彿とさせる(あれよりは濃い)ソースを絡めれば、また少し違う味わいになる。名物に美味いものはなしというが、これは確かに美味しかった。
 だが、ずっと食べ続けるには甘すぎる。その大きさと推定カロリーの高さに、半分も食べないうちに菊はカトラリーを置いた。
「なんだ、もう食べないのかよ?」
「はぁ、甘い物は嫌いじゃないんですけど、大量に食べられない質でして」
「貸せよ、食ってやる」
 事も無げにそう言って皿を変えようとするアーサーに、眼を剥いた。
「え、いやでも、アーサーさん一皿食べましたよね?」
「ああ、でも残すと『モッタイナイ』って言うんだろ、日本では」
 ワールドワイドで局地的に有名になった日本単語を得意げに吹聴するアーサーは、ありえないものをみるかのような菊の視線に気付いて、途端にしどろもどろと言い訳をしはじめる。
「べ、別に食べたいとか言うんじゃなくてだな、残すのは良くないことなんだろ。だったら無理してお前が食べるより、俺が食べた方が合理的かと……」
「もったいないよりなによりも、私はアーサーさんのお腹周りが心配です……」
「なんだよ、それ!折角親切で言ってやったのに菊のバカぁ!」
 拗ねたようにアーサーは機嫌を悪くするが、彼の健康と体型維持のために、絶対ほだされまいと菊は視線を外へと向け、そ知らぬ顔を決め込んだ。




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