英国旅行記


 3
 
 
 
 
「いえ、私のイメージではこう、なんというか、B&Bのようなところに泊まってですね、チープな休暇を楽しむつもりだったんですが……」
 思い描いていた宿は、間違っても目の前に建つ、大きな屋敷然とした建物のイメージではなかったのだ。この地方ならではの岩造りの屋敷は、十本近くはある煙突の数からしても、普通の家とは程遠い。
 B&Bに泊まって一つの部屋のどちらのベッドを使うかアーサーとじゃんけんしたり、買い込んだ酒を行儀悪く飲みながら深夜まで四方山話をしたり、そんな旅を考えていたのだが、想定とは程遠い滞在になりそうだ。
 さよなら、私のカントリーライフ、と遠い目をする。
「べ、別に違う宿を探してもいいんだぞ」
 B&Bくらいここにだってあるし、と続けるアーサーに首を振った。
「いえ、せっかくですからお言葉に甘えて泊めていただきます」
 その言葉に彼がほっとしたように表情を緩めたところで、コンコンと運転席の窓ガラスが鳴る。話をしているうちに、屋敷の人間が出てきたらしい。
「二人とも話は済んだのかな。ようこそお帰り、アーサー、元気そうでなによりだよ」
 がっちりとした体格の初老の男性が、親しげにアーサーを抱きしめる。きっと彼は先ほど携帯電話で話していた相手なのだろう。
「久しぶりだな、ジェイムス。お前こそ元気そうだ」
「勿論、元気さ。そして君は菊だね、会えて嬉しいよ。私はジェイムスだ」
「こちらこそお会いできて嬉しいです。本田菊です」
「ジェイムスは以前うちの秘書をしてくれていたんだ、今は引退してこの屋敷の管理をしてもらっている」
「実は、私は君のことを前から知ってるんだよ。我々のアーサーと個人的にとても仲が良い友達だということで、君はちょっとした有名人なんだ」
「はぁ……」
 なんだろう、その有名人というのは。曖昧な笑みを浮かべた菊に、
「日本にも行ったことがあるし、日本語は理解できるから、日本語で話してくれて結構だよ。ニホンゴ、ワカリマス、デモ、シャベルノハヘタデス」
 ジェイムスはおどけた片言で、ウィンクしてみせた。
 
 屋敷の中は思ったよりもシンプルなデザインで、カークランドの本邸と比べれば質素といえるだろう。
「君の部屋はここでいいかな」
 通されたのは、掃き出し窓にバルコニー付の、広々と明るい二階の部屋だった。奥には四柱天蓋のベッドがあり、座り心地が良さそうな一人掛けのソファーと足置き、そして暖炉もある。
 専用のトイレやバスタブ付の浴室は最近改装したらしく、そう言われれば清潔で新しい。床の白黒格子柄と蛇口等の古美金が美しいハーモニーを奏でる大理石の空間だった。
「すごく立派で、綺麗なお部屋ですね。ありがとうございます」
「昔、館の奥方の部屋だった所を広げて改装したんだ。隣が主人の部屋で、アーサーの部屋だ。そして彼女が今のこの部屋の女主ブランキー。彼女の指定席はこのソファーだ。猫は平気かい?」
「ええ」
 調度品の一つのように空間に馴染んでいたため気がつかなかったが、灰と銀のトラ猫がジェイムスの声に顔を上げる。青とも緑ともつかない眼で菊を一瞥したブランキーは、音もなくソファーの背から降り、尻尾でアーサーの脚を撫でて部屋を出て行く。
「アーサーさんの猫なんですか?」
「まぁな」
「猫に限らず、この屋敷の中のものも屋敷の外も全てアーサーのものだよ。さて、アーサー、君の荷物はいつもの部屋に入れておくが、何か飲んだり食べたりしたくないかい?」
 そう言われてみれば、昼ご飯を食べていないこともあり、少々空腹を覚える。
 折角天気が良いのだから庭のテラスでと勧められ、荷物を置くのもそこそこ、庭へと出た。
「すごい……薔薇園ですね!」
 バルコニーのように高いテラスから見下ろす庭は、薔薇を中心に咲き誇る、色の洪水だった。
 どこか懐かしい柔らかい薫りに振り返れば、背後の館の壁にも蔓薔薇が這い、その根元には濃淡の紫や薄桃を基調とした背の高い金魚草や緑の花壇があった。ハーブの本で見たことのある植物が、緩く吹くそよ風に揺れている。
 天気が良く、少し暑いくらいの陽射しだが、空気は乾燥して木陰に入れば涼しい。
 やがて伝統的な三段トレイのアフタヌーンティを運んできたジェイムスは、彼とともに紅茶を持ってきた女性を紹介する。
 この屋敷の家内を取り仕切っているというアンは、料理が上手とジェイムスが自慢していただけあり、大振りで食べでのあるツナとサラダのサンドイッチも、焼きたてなのか温かいスコーンもとても美味しかった。
「どこか観光がしたいという所があれば行くが?この辺りで観光と言えば、チャッツワースやハドンホールという館が有名だが、ヨーロッパ一大きな鍾乳洞もあるし、湖での水遊びやロッククライミングができる岩山も人気だな。ハイトオブエイブラハムには景色を一望できるロープウェーもある」
「なるほど」と、食べながら菊は考え込んだ。確かにここまで来たからには、観光をすべきかと思うのだが、正直気合いを入れてあちらこちら廻ると思うと、それだけで億劫になる。
「お屋敷ならこちらで充分堪能できますし、鍾乳洞も日本に何個もありますから特には。アーサーさんは行きたいところや、したいことはないんですか?」
「折角の良い季節だ、ウォーキングでもしようかと思ってるんだが」
「それは私のような素人でも歩けるものなのですか?」
「コース自体は初心者向けの一時間以下の散歩道から、ちゃんとした装備が必要な上級者向けまでたくさんあるから、歩けそうな道を選べば問題ないだろう。靴がないなら、俺ので良ければ貸すぞ」
「ありがとうございます」
 ウォーキングは国民的人気の趣味だというし、のどかなこんな田舎は、ガツガツと観光をするよりも景色や空気を堪能するべきだろう。
 晩ご飯も、自分たちと同じメニューで良いなら、というアンの言葉に甘え、お茶の時間と同じように外で食べることにした。
 一緒に供された白ワインが旅の疲れと時差ぼけが残る身体に眠気をもたらし、まだ陽が高い八時台には、菊はばたりと布団に倒れ込んでいた。




back + Home + next