英国旅行記


 23
 
 
 足音を忍ばせて部屋に戻る。室内に変わりはなく、ベッドの上のイギリスも眠っているようだった。
 静かな寝顔を見下ろす。美しいその貌を触りたい、という欲を大きく息を吐くことで堪え、気持ちを立て直した日本はそっとシーツの狭間に滑り込んだ。
 だが、身を横たえる寸前、あっと驚く間もなく、寝ているとばかり思っていたイギリスの腕が腰を抱いた。
「すみません、起こしてしまいましたか」
 見下ろすイギリスは眼を閉ざしたままだ。
 先ほどと寸分違わず姿で、眠っているように見えるイギリスだが、見下ろすその間にも両腕でしっかりと腰を抱きしめるからには、起きているのだろう。
 暫く待てど返らぬ答えに困惑し、無聊を囲して金の髪を撫でようとする。その手が触れる直前に、低い囁きが静かな部屋に落ちた。
「――いつまで居られるんだ?」
 イギリスのその言葉に、日本は微笑んだ。
「さて、殆ど事後承諾できてしまいましたし、一週間近く音信不通にしていましたからね。まずは上司と連絡をとって決めようと思います。……あなたの敗因は、フランスさんを呼んだことだと思いますよ。なんだってあの人を呼んだんですか?」
「仕方ねぇだろ、お前と二人きりで何もしない自信なんてなかったんだよ。半年ぶりの恋人の寝顔見て、なんとも思わねぇほどこっちも枯れてねぇ」
 唸るようなイギリスの声に、そういえば無意識とはいえ散々彼を煽ったのだ、と今は遠いもののように思える菊としての記憶を思いおこす。寝る時に手を繋いでもらったり、抱きしめてもらったり、さぞかしイギリスは悶々と夜を過ごしたことだろう。些か申し訳ない心持ちもする。
「湖水へはどうして?」
「ピークでお前、魔法が解けかけてたからな。あのままあそこにいたら早晩魔法が解けてたはずだ。それにアンと話すのがストレスだっただろ」
 気付きもしなかったことを指摘され、目を丸くする日本に、顔を上げて空を睨むイギリスは、ほろ苦い表情で笑った。
「それなのにお前はこっちの努力をまるで無視して、いきなり告白しようとするから参った」
「はぁ。それは申し訳なく……。ああ、でも逃げないでくれてよかったです。アーサーさんが逃げたら、私、フランシスさんに慰めてもらうつもりでしたから」
 そう告げると、はっと眼を見開いた彼は、信じられないものをみたような瞳で日本を見上げた。見る見る間に翠の瞳が涙で覆われていく。
「なんで…そんなこと言うんだよ!あっという間に好きだって自覚してこっちの制止も聞かなかったのは、本当は俺のことそんなに好きじゃなくて、ただ賭に勝ちたかったからなのかよ?!」
 驚き見詰める間にも、涙は大粒の玉となって頬を伝い落ちる。それを呆然と日本は見詰めた。
 そんな懸念を、彼は抱いていたのだろうか。
「――イギリスさん」
 そんな疑念を、この優しい人に抱かせ、不安に苛ませていたというのか。
「イギリスさん、どうか泣かないでください」
 涙を拭おうとすると、びくりと震えた彼は、日本の膝に顔を埋めて隠す。
 泣き声を堪えるためにか、たまに荒く吐き、息を止めてしゃくりあげるのが痛ましいような、いじらしいような、限りなく感じる愛おしさのまま、頭を撫でた。
「あんなに急に好きだって言ったのは、アーサーさんが格好良過ぎたのがいけなかったんですよ」
「……俺のせいかよ」
 くぐもった声は、涙に濡れている。
「ええ、あんな格好良い紳士に大事にしてもらったら、好きでたまらなくなるのは仕方ないです。それにアーサーさんがフランシスさんとやけに仲が良くて、それなのに菊とは距離を置こうとしていたのを感じて、不安になったんです」
「なんだよ、それ」
「逆効果だったのかよ」と頭を掻きむしりながら上げる悔しそうな声は、泣いた名残の鼻にかかったものだ。
 
――ああ、本当にこの人が好きだ
 
 何度思ったか分からぬその思いに突き動かされ、膝をかき抱くイギリスの頭をそっと枕に戻し、隣に横たわるとその頭を抱き寄せた。
「イギリスさん……、『菊』が『アーサー』を好きなのと同じ程度には、私はイギリスさんを愛してますよ」
 そう告げると、また翠の瞳がキラキラと光る涙の膜で覆われる。声もなく涙を流すイギリスの頬を指で拭い、何度も口づけを落とす。
 なされるがままにそれを受け入れた彼は、やがて泣き疲れた子供のように眠りについた。
 これまでも何時間も眠っていたはずなのに、と考え、それだけ眠りを欲していることに思い当たった。
 本当にどれだけ彼は、自分を守ろうとしてくれていたというのだろう。
 力なくシーツに落ちた手を両手で包み込みこむ。
 普段は黒手袋に覆われ、触れることのできない彼の大きな手。心労と哀しい記憶が引き起こす悪夢から、眠りを守ってくれていた優しい手だ。
 綺麗に整った爪と、優雅なラインの指と温かい手のひら。そんな部位からなるこの手は、自分にとっては美しいものの象徴でもある。
 世界はまだこの夜の闇のように、先が見えず、悪夢のような冷たい現実に満ちた、厳しいもののように見えるけれど。
 けれどもこの優しい手の記憶がある限り、また前を向いて歩いていける。
 そんな気がして、大事に握り込む。
 やがて訪れた眠りは、穏やかで甘いものだった。





END.




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