英国旅行記


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「分りますか」
「うん、顔つきが全然違うからさすがにね」
 即答するフランスに、日本は首を傾げた。
 そんなに違うものだろうか。意識の上ではそう違わない気がするが、確かに視界が広く啓けた感はある。
 本田菊として過ごしていた時、周囲を隔てていた遮蔽がなくなった、そんな感覚だ。
「フランスさんがわざわざ来られたのは、イギリスさんから呼ばれたためですか?」
「そう。日曜にいきなり、今すぐ来いって泣きつかれてね。今すぐったって、こっちにも都合があるのに、全くあの眉毛は……」
 ぼやきとも愚痴ともつかぬ口調でげんなりした表情を見せる彼に、きっとかなりの無茶を強いたのだろう。
「大変ご迷惑をおかけいたしました」
 元はと言えば、自分が原因なだけに、恐縮して目を伏せる。漂うそのくすんだ空気を払拭せんと、フランスは明るい声を出した。
「いやいや、日本に会えて嬉しかったのは本当だから。楽しそうな顔も久しぶりに見れたし、ついでに見たことないような顔も見せてもらったしね」
「驚かれましたでしょう」
「いや、イギリスの魔法にかかるなんて、チャレンジャーだなとは思ったけど……でもまぁ事情は分らなくもないからさ」
 幾分同情と哀れみを含んだ視線を向けられ、日本は薄く微笑んだ。
 春に起きた複合的な災禍からこの方、内憂外患というよりもむしろ内患外憂と言いたくなる難事続きで、日本は疲弊しきっていた。
 とはいえ世話になったアメリカの誕生日パーティーには、何があっても行かねばならぬと赴いた先で、休暇を取るようにと勧められたのだった。
 正直この時期に休暇をとるなど、正気の沙汰ではないと随分と言葉を尽し、自分にしては珍しく強硬に主張したつもりだったが、居並ぶ友人達全てから口を揃えて諭された。かくいう目の前の彼も、その一人だ。
 挙げ句の果てには、パーティーの主役から、「イギリスの所でバケーションを取ればいいじゃないか、それでいいよな、イギリス」と当事者である日本の意向を無視して一方的に決められたのだった。
 イギリスと日本が恋人として付き合っていることは、公然の事実であったが、アメリカはこれまでそれに見て見ぬふりをしていた。黙認と言うよりも、反対する理由が見つけられないがゆえ、無いものとして扱っていたというのが正しいところだろう。
 その彼が、その関係を認めてまで自分に休暇を取らせようとしたことに、日本は屈せざるを得なくなった。
 とはいえ、そのまま直接イギリスと共に渡英したものの、正直休暇などとるつもりはなかったこともあり、全く休暇気分にはなれずにいた。
 なによりもイギリスと二人きり、という状況に神経を尖らせ、そしてそれを表に出さないよう腐心することで更に消耗が酷くなった感がある。
 アメリカはこの気まずい雰囲気を見越し、仲を消滅させんと計って二人きりにさせたのだろうかと穿った見方をしたくらいだ。
 落ち着けない理由は、イギリスと直接顔を合わせるのがあの春の災禍以来初めてだからだ。
 前回二人で過ごしてからの期間をなかったことのようにして振る舞うべきなのか。それともそれを口にして良いものか。
 互いの一挙手一投足、言葉尻に反応し、ようやく普通にしようという結論に達するも、そう意識して勤めるだけで疲れ果ててしまっていた。
 イギリスがどうにかして、自分の意に沿った形で、快適に休暇を過ごせるよう骨折ってくれているのは、分っていた。
 それを上手く受け入れられず、疲労を増していったのは日本の内奥の問題で、イギリスが悪いわけではない。だが、日本がそれを自覚しつつも上手く心の調整ができず、久しぶりの恋人と共にいる喜びなどなく、早く帰りたいという望みが心を占めていることに、イギリスも気付いていたのだろう。一日目の晩に、
『賭をしないか』
 と彼は切り出したのだった。
『簡単なゲームだ。俺がお前に魔法をかける。目が覚めたらお前は本田菊という人間になっていて、幼馴染みのアーサー・カークランドの所へ旅行で遊びに来たと信じるんだ。お互いをただの幼馴染みと思っているお前が、俺に恋をして愛していると言えばそこでゲームオーバー。何もなければ、一ヶ月ここでホリデーを過ごすというわけだ』
『……その賭のメリットは何ですか?』
『お前はさっさと休みを切り上げたいんだろう?でも俺は皆から頼まれた責任があるからには、その希望を叶えてやることはできない。だが、賭で負けたと言えば言い訳が立つだろう』
『あなたにとってのメリットは?』
『お前からの愛の言葉。もしくは約束を守った名誉だ』
 突飛な提案ではあった。そして、イギリスの魔法というのも眉唾だ。およそ彼の魔法で問題が起きなかったためしがない。
 そう思えど、日本はその提案に頷いていた。
『いいでしょう。では私は告白する方向で』
『なら俺は告白せず、一ヶ月滞在する方だな』
 賭に乗ったのは、ぎくしゃくとした空気に倦んでいたせいもある。しかし何よりも、全てを忘れるという誘惑に抗えなかったからだ。
 今考えれば、あの時の自分は不確実なイギリスの魔法に縋るほど追い詰められていたのだろう。
 
 
 
「でも早めに思い出してくれて良かったよ。お兄さん、いい加減英語でしゃべるの、苦行でした」
 苦笑してみせるフランスは、そう言われてみれば今はフランス語を喋っている。フランス語を解する要素がない本田菊という設定に付合ってくれたのだろう。
 基本どの国も、自国語に対する拘りが強いが、中でも特に自国語をこよなく愛するフランスにとって、英語での会話はさぞストレスだったに違いない。
「本当に重ね重ねご迷惑おかけしました」
 これは後で念入りにお礼をせねばならない、と冷や汗をかく日本に、フランスはラップトップの画面を向け、日本の新聞サイトを示す。
「日本国内は、大きな問題も起こっていないし、国際情勢も変化なしだ。気になって起きてきたんだろ?」
「ええ、さすがにそろそろ限界です」
「でも、お兄さんとしてはもう少し休んでもいいと思うんだけどね」
 その言葉は記憶を取り戻す方向へ後押ししていた彼のこれまでの言動とは相反するもので、おや、と日本は、首を傾げてみせた。
「フランスさんは私が一ヶ月も不在で、困らないんですか?」
「そりゃあね、困るのは確かだよ。でも休んで欲しいと思うのは本当。それは俺だけじゃない、皆そう思ってるよ。特に――」
 ちらっと階上に視線を向けた彼が示さんとする所は分る。
「正直ちょっと可哀想かな。賭に負けてバカンスは終了。周りの国からは散々詰られるだろうし、きっとアメリカ辺りは鬼の首でも獲ったように、ここぞとばかりに文句を言いまくるだろうしな。あれでもあの坊ちゃん、かなり痩せ我慢で耐えてたからね」
 確かに半年近く触れ合ってない恋人をベッドで抱きしめながらも平静を保ち、日本から愛を告げられるという彼にとっては理想的な場面でも必死に言葉を重ねそれを先延ばしにしようと図り、と実に強靱な自制を働かせていたと思う。
 それもこれも賭への勝利に拘るというよりも、日本にできるだけ長く何も考えずに済む穏やかな時間を与えたいと願ってのことだろう。
 本当に彼はできる限りのことをしてくれたのだ。
 ひたひたと胸に溢れる温かい気持ちに、ふと言葉が口についた。
「分っています。……でもあれ以上は私が我慢できませんでしたから」
「我慢?」
「ええ、好きな人が傍にいるのに何もできないなんて拷問です」
 言い切った後で、恥ずかしいことを口走ったと自覚する。
「ええとですね、今の言葉と、ついでにこの休暇中の私の言動も他言無用、いえ、むしろ記憶から消去いただけたら助かります」
「いや、忘れませんよ。あんな珍しい日本」
「あー…あれは私であって、私ではありませんから」
「まぁ、言わないけどね。あの馬鹿をこれ以上増長させて、渇水でも起こされたら大変だからさ」
 そう宣うフランスに、そう言えば同じような台詞を当のイギリスに吐いてしまったのだと今更ながらに思い出し、日本は内心頭を抱えた。
 これから先暫くはその手の行為に雪崩れ込もうとするイギリスに、格好の口実を与えてしまったということになりはしまいか。
「さてと、じゃ、お兄さんそろそろ帰るわ」
 落ち込んでいた日本はラップトップを閉じ、立ち上がるフランシスに眼を瞠った。
 今から帰るというのだろうか。時計は日付を変更してさほども経っていない。
「まだこんな時間ですよ」
「そう長居もしてられないからさ。それにイギリスと顔会わすと長くなりそうだし」
 君たちはどうにかして帰れるでしょう、とキーを手に取る彼は、こんな真夜中にどうやって帰るのだろう。
 そう案ずるが、恐らくプライベートジェットでも手配したのだろうと思い至る。
「じゃあまたね」
 と軽く手を挙げ、出て行こうとする彼に、はっと大事なことを思い出した日本は声を上げた。
「フランスさん」
 声を掛けると、闇にも鮮やかなブロンドの美丈夫は振り向いた。
「誕生日おめでとうございます」
 その言葉に片手を上げてにっこり笑う。
 
 
 日付が替った今日、七月十四日はフランスの誕生日だった。
 




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