英国旅行記


 21
 
 
 昨日、この階段を上った時には、こんな事態になるとは思わなかったと、ゆっくりと上がりながらぼんやり考える。自分が正しいことをしているのかどうかは分からない。だが、たった一つ確かなことは、アーサーと自分の関係を、このまま有耶無耶にはできないということだ。
 足音には気づいていただろうに、ノックをしてようやくアーサーはのろのろと振り向く。
 無表情に見える彼の瞳は、何か怖いものでも見るかのように揺らぎ逸らされる。
「アーサーさん、お話があります」
「それは……急がなくてはいけないものなのか」
 先ほどの言い争いの後だ。自分が何を言おうとしているのか彼には分かっているというのだろうか。
 黙って見詰めていると、落ち着き無く視線を彷徨わせたアーサーは観念したように口を開いた。
「だってお前、俺のこと好きだって思ったの、昨日やそこらだろう」
 ああ、分かっているのか。分かっていて、先延ばす気なのか。
 そう判明すれば、落胆とも悲しみともつかぬ気持ちが沸き起こる。
「では、アーサーさんは、私のこの気持ちが嘘だって言いたいんですか」
「そうじゃなくて、そんなに急がなくてもいいんじゃないかってことだ」
 なぜそんなことが言えるのだろう。こうして傍にいるだけでこんなにも気持ちが溢れて、叫び出したくなるような衝動にかられるくらいなのに。
「なぁ、そんなに急ぐことないだろう。一度言ったらもうあともどりできないんだぞ」
 聞き分けの悪い子供を宥めすかすようなアーサーに腹立だしさを覚え、菊は問い掛けた。
「アーサーさんは……私が好きだって言ったら迷惑なんですか?」
 その瞬間、アーサーがびくりと震える。
 卑怯な質問をしているのは分かっている。
 こういう言い方をしたら、彼は否定せざるを得ないのは分かっているけれど。それでも追い詰めずにはいられなかった。
 見る間にじわりと緑の瞳が潤み、涙が浮かぶ。自分より背が高い大人びた顔立ちの彼がこうして泣き顔になると驚くほど子供っぽく見えて、自分が泣かせたというのに頭を撫でて慰めたくなる。
「なんでそんな酷いこと言うんだよ。俺が…っ……なんのためにっ……」
「アーサーさんが言っていることが分かりません。迷惑ならちゃんと言ってください。私、しつこくしませんから、嫌いならそう言って下さって結構です」
 片手で顔を覆い、涙を堪えるアーサーにそっと近づき、腕に触れる。その瞬間、逆に両腕を掴まれた。
 驚きに眼を見開く間に、強い力で引き寄せられ唇が重なった。呆然とした形で開いた口に熱い舌が忍び込み菊の舌を捉え絡め取る。吐息も唾液も貪りつくすような激しい口づけに息ができなくなる。
 どれだけ経ったのか認識できないほど現実から乖離した時間が経って、ようやく唇が離れた。
「分かってんのか!好きっていうのはこれ以上のことが含まれるんだぞ。お前が望んでるような、手をつないで仲良しごっこをするのと訳が違うんだからな!」
 脅すような物言いに、ぼんやりとアーサーの顔を見上げる。口づけは、彼の気持ちが己と同質のものだと伝えていた。けれども目の前のこの苦しげな表情は、彼の中の激情を堪えているためだろうか。
『彼は君のために本当にできる限りのことをしたいと思っているからね』
 忘れないで欲しいと、言ったジェイムスの言葉を思い出す。
 何が彼を押しとどめているのかは分からない。
 けれどもきっとそれは自分の為を思ってのことなのだろう。
 
――ああ、やっぱりこの人が好きだ
 
 優しいアーサーの気持ちは嬉しいけれど、でも、居ても立ってもいられぬようなこの気持ちは最早自分でもどうすることもできない。
「好きな人が傍にいて、こうして手に触れることができて、それでも何も感じないなんてそんな訳あるはずないじゃないですか!」
「お前、酷い――」と俯き小さく呟いたアーサーは、何かを決意したかのように、ぐっと顔を上げた。
「だったら……今からそれ以上のことをするぞ」
 いいんだな、とそっと両肩に乗せただけの手は、突き放すべきか、抱きしめるべきか、未だ迷っているのだろうか。
「好きです……あなたを、愛しています」
 ようやく言えた言葉に微笑むと、泣きそうな顔でアーサーが唇を噛む。
「俺もだ……畜生」
 全てを吹っ切ったのか、また激しいキスが降ってきた。
 その言葉で、口吻けで、彼がこの気持ちを受け入れてくれたのだと菊は悟ったのだった。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 眠りから覚めると、部屋は闇に包まれていた。
 腰を抱く腕をそっと外し、身を起こしても、隣で眠る男は身動ぎしない。
 石膏像のように精緻な美貌は窓から射す青白い月影に照らされ、息をしていないのではないかと不安になるほどこの世離れして見える。そういえば以前も口と鼻に手を翳し、息を確かめたことがあった。
 ベッドから足を下ろすと、ふっと身体が傾ぐ。酷使した足腰に上手く力が入らない。それを気力で耐えて、浴室へ向かった。
 鏡に映る己の顔を見る。
 のっぺりと面白みのない顔は己自身のものではあるが、随分と久しぶりに見たような気がした。
 身を清め整えて真っ暗な部屋に戻っても、寝台の上の塊は先と寸分変わった様子もない。
 そっと部屋を出て、階下から漏れる明るい光に、足音を忍ばせ階段を下りる。光を辿っていけば、台所の扉が薄く開いていて、探していた人物はキッチンの丸テーブルに向かってラップトップをいじっていた。
 気配に気付いたのか、顔を上げる。
 視線が合った彼は、
 
「やあ、日本」
 
 と笑った。
 




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