英国旅行記


20
 
 
 
「少々予定が変わりまして、明日の便で帰国しないといけなくなりました。申し訳ありませんが、のちほど最寄りの駅まで送っていただけませんか?」
 朝食の席で菊がそう言った時、友人二人の反応は劇的だった。
 すっと色を無くしたアーサーは、今にも射殺さんばかりの険呑な眼差しで、唖然とした表情のフランシスを睨みつける。
「おい、ヒゲ……お前こいつに何か言ったのか?返答次第では、お前のことを殺す」
「はァ?俺?いやいやいや、なんも言ってないから!言うわけないだろ、俺が!てか、お前思いっきり素がでてる!海賊モードよ、それ!」
 ゆらりと席を立ち上がったアーサーに周章狼狽したフランシスもつられて立ち上がり、必死に宥める。
 そしてアーサーが怯んだ隙に、菊に向かって訊ねた。
「ちょっと菊ちゃん、帰国ってなんでまた?!」
「そうだ、帰国ってなんだよそれ!一身上の都合ってどういうことだ!もしかして……ここにいるのが嫌になったのか?湖水か?湖水が嫌か?湖水が嫌なら違う所に行くか?ノースヨークシャーやコーンウォールなんかもいいぞ!普段足を伸ばさないマン島とか、ワイト島はどうだ!」
 返事をしない菊に、アーサーは青ざめる。
「そ、それとも……この国が嫌になったのか?」
「嫌いになんてなりませんよ。この国はとても美しく、素晴らしくて、大好きです」
 返事をしたことにほっとしたのか、一瞬で血の気を取り戻した彼は、興奮が戻ったのか赤い顔で怒鳴った。
「だ、だったら、なんで帰るなんていうんだ!帰るなんて許さねぇからな!」
「アーサーさんに許してもらわなくても、帰ります」
「いいや、帰さねぇ!パスポート入れた金庫は死んでも開けないし、大使館に駆け込んでも圧力かけてやる!飛行機だって止めるからな!」
 どうして勝手なことばかり言うのだろう。
 一緒にいたくないのはアーサーの方ではないか。
 昨日告白しようとした時に逃げ出した上、距離を置いて、結局夜も部屋に帰ってこなかったのは彼だ。
 それなのにどうして今更自分が帰ると言いと、引き留めにかかるのだろう。アーサーは勝手だ。
 考えるうちにムカムカと苛立ちが募り、ガタンと音を立てて菊は立ち上がった。
「もういいです!アーサーさんなんか大っ嫌いです!」
 大声で言い捨てて、踵を返す。
「ちょっと、菊ちゃん――」
 フランシスの声を無視して、部屋を出る。
 引き留めるアーサーの声はなかった。
 
 
 
 
 
 このまま本気で警察まで駆け込んで、日本に帰ってやろうかと荷物をまとめはじめたが、駆け込んでそれからどうするのかと考えた所で手が止った。
 この状況をどう説明するのだろうか。しかも英語で、となると、想像だけで挫折感に負ける。
 それにこのまま帰っても、後ろ髪を引かれ、帰り道の途中で立ち止るのは目に見えていた。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 アーサーが自分のことを恋人として好きになれないのならば、いや、好きになってはいけない理由でもあるのなら、それならそれで構わない。
 さっさと振ってくれて、そこから関係を再構築する方がよほど健康的だ。何も言わせず、なかったことにできる段階など、もうとっくに過ぎているのだから。
 
――アーサーは勝手だ
 
 腹立たしいのと悔しいのと悲しいのが混じりあって、菊は立てた膝に顔を埋めた。
 そのままどれだけ時間が経ったのか。室外に人の気配がし、ノックの音が響いた。
 無視していると、「入るよ」と言うフランシスの声と共にやおらドアが開く。
 立て膝で抱きしめたクッションに顔を埋めたまま黙りこくっていると、ベッド横のテーブルにカップが置かれる音がする。ふわりとカフェオレの薫りが漂った。
「少しは落ち着いた?」
 ベッドに腰掛けて、優しく声を掛けるフランシスに、まるで自分が癇癪をおこして宥められる子供みたいだ、とばつが悪く感じて、顔を上げた。
「あの、ご迷惑をおかけしました」
「いや、お兄さんは別にいいんだけどね。怒る菊ちゃんなんて面白いもの見れたし。でも、どうしてそう斜め上をいっちゃうかなぁ」
 感心したような呆れたような物言いに、むっとする。
「……フランシスさんが言ったんじゃないですか」
「うん?」
「アーサーさんと二人っきりで、今までと同じように過ごせるかって」
 無理だと思ったから、これ以上互いが気まずくなる前に時間と距離を置いて頭を冷やそうと思ったのだ。それなのになぜこんなことになってしまったのだろう。
「どうしたもんだかねぇ」
 俯いてまた膝に顔を埋めた菊に、フランシスはうーん、と唸る。そして暫しの沈黙の後、口にしたのはおよそ本気とは思えない提案だった。
「じゃあさ、ここはアーサーなんかやめて俺にしとけばいいんじゃない?」
「……フランシスさん、真面目に考えてないでしょう」
 冷たい視線を向ける菊に、フランシスは大仰に首を振る。
「いえいえ、大真面目ですよ。菊ちゃんがお兄さんと付き合うなら、アーサーなんか適当にあしらって君を守ってあげるよ。バカンスの続きは、素敵な南の島で楽しく過ごせばいい。俺たち趣味も合うし、きっと楽しく過ごせるさ。そしたら折角の休暇に、そんなに哀しげな顔をすることもなくなる。うん、我ながら素晴らしい提案だと思うなぁ」
 うんうんと自画自賛をして悦に入るフランシスを、ぼんやりと見詰めた。
 確かにフランシスとなら、楽しい休暇が過ごせるだろう。地の果てまで落ち込むことも、涙にくれることもない、押し並べて幸せな休日。日々穏やかに過ごすのが一番と感じる自分には、理想といえるだろう。
 そんな菊の心の揺らぎを察知してか、彼はにやりと色悪めいた笑みを向ける。
「大丈夫、片思いの一つや二つ叶わなくても世界が終わる訳じゃないし、新しい恋をすれば簡単に忘れられるよ。お兄さんのテクで懇ろに慰めて、あっという間にメロメロにしてあげるからさ」
 目を丸くする菊に、フランシスは体格を感じさせぬ滑らかな動きですっと身を寄せる。
 大きな手に肩を抱き寄せられて感じたのは、肌が粟立つような嫌悪だった。考えるより先に、パシリと手を払いのけた。
「触らないでください!フランシスさんに慰められたくないです」
 違う、自分が欲しいのはこの手ではない。
 アーサーの手だ。アーサーの手しか、いらないのだ。
 フランシスの手に触れられて、そう自覚する。
 彼ならきっと甘いだけの幸せな恋をさせてくれるだろう。スマートで優しくて趣味も嗜好も合って、きっと恋人にするには最高の相手。
 それでも自分が選ぶのは、いや、選ばざるをえないのは、ややこしくて我儘で、何を考えているのか分からないアーサーだ。彼の一挙手一投足、いや、眼差しの一つで自己嫌悪の海に沈んだり、何気ない風景が天国のように美しく感じられたり、そんな風に自分を動かすのはアーサーだけだ。
「それに慰めてもらうつもりはありません。私、まだ、振られたわけではありませんから」
 まだ自分は何も言っていない。
 そう、何も言っていないのだ。
 自分に言い聞かせる菊に、振られた形となったフランシスは、「そっか」と楽しそうに笑った。




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