英国旅行記
|
|
19
三階へと上る階段を、菊は重い足で上った。
あのまま使い物にならなくなった菊に、ここはもういいからとフランシスは休むように告げたのだった。
家に着いた途端、携帯を睨み、レポートがあると告げて階上に上がっていったアーサーは、きっとこの部屋にいるはずだった。
頭の中がぐちゃぐちゃになっている今、彼に会うのは怖い。でも心細くて、顔が見たくて、居ても立ってもいられない気分で、自然と足が階段を上っていた。
開いている戸口から、そっと中を覗く。
アーサーの後ろ姿が見える。
「どうした、菊?」
足音に気がついていたのだろう。アーサーはすぐに振り返った。
「お勉強ですか、アーサーさん」
「ああ、いや、またメールが来て……。まぁたいしたことないレポートだから大丈夫だ」
そう答えるアーサーは、菊の顔を見て眉を寄せた。
「顔色が悪いけど、なんかあったのか」
――ああ、やっぱり彼は自分を疎んじてはいない
心配そうな表情のアーサーに、少しほっとする。
それとも本当は困っているけれど、保護者の意識で心配してくれているだけなのだろうか。ふと忍び込んだ疑念に、重い疲労感がのしかかる。
「ここに……ここに居ていいですか?お邪魔はしませんから」
返事を待たぬうちに少し離れた長椅子に座り、クッションに頭を凭れる。
眼を瞑ると、近づいてくる気配がした。
「また夢でも見たのか?」
そっと頭を撫でられる。
そうだと言ったら、抱きしめてくれるだろうか。そんなずるい考えが浮かぶ。でもそれは卑怯な真似だと思い、口を噤んだ。
さらさらと髪を辿る指が心地よい。
手を伸ばし、その指を握ったのは無意識だった。
指を頬に寄せた。温もりが気持ちいい。
大胆な真似をしていると気付き、心臓が跳ねる。
こんなことをすれば疎まれる元になるだけだ、心の片隅でそんな警鐘も響くが、温もりが取り上げられないことに許された気がして、そのまま気付かないふりで眼を閉じる。
大きな手。
骨張った長い指は、それでも滑らかだ。
アーサーの手だ、そう思うだけで気持ちが凪いだ。
そっと眼を開けると、優しい翠がすぐ傍にある。
視線が絡むと引き離せなくなる。
押し隠さなくては、と考える隙間もなく、ただただ好きという気持ちが溢れ出し、全身を甘く満たした。
熱っぽく潤む瞳が、言葉にならない気持ちを雄弁に語る。見詰める瞳が甘く煙るのは自分だけではない。
その瞳を見れば、これまでの不安は杞憂だったと瞬時に分かった。この瞳は、恋の熱に浮かされた者だけが有しえるものだ。
互いに引きあう甘い誘引力が空気を変える。
彼もまた同じ気持ちであると、不思議に信じられる。
言ってもいいのだろうか。
愛していると、口にするのがむしろ自然な気がして。
「アーサーさん……私――」
眼差しに誘われるがまま、口を開いた。
その瞬間、はっと我に返ったように甘い色を払拭した瞳に気付くより早く、熱い物にでも触れたかのように、パシッと手を払いのけられる。
何が起きたのか分からなかった。
だが、しまったと言わんばかりの後ろめたい表情と、翠に浮かぶ畏れるような色に、自分の手が、言葉が、拒絶されたことに気付いた。
「悪い、あー、その、俺……フランシス手伝ってくる…な……」
菊の顔を見ず、部屋を出て行く後ろ姿をぼんやり見送る。
「アーサーさん……」
のろのろと身を起すが、身体に力が入らない。
フランシスが呼びに来るまで、菊はその場から動けず、座り込んだままだった。
夕食はまるで砂を噛むようだった。
フランシスが腕によりをかけて作った料理は、美味しいはずなのに、味がまったくしなかった。
夕食の後、シアター室で映画を見ようというフランシスの誘いを、菊は断らなかった。
映画を見ながら酒を飲んで、そのままそこで寝てしまえば、アーサーと一緒のベッドで寝なくて済む。そんな算段があった。
夕食の最中からちらちらと菊の様子を窺っている様子のアーサーは、菊が顔を上げるとぱっと顔を逸らす。結局食事中もろくに言葉を交わさず、レポートが終わっていないと言い訳のように呟いてシアター室へは来なかった。そのことに少しほっとして、そしてほっとした自分が哀しかった。
フランシスが選んだ映画は、古くてマイナーな白黒映画だった。出征した恋人を待ち続け、出す宛のない手紙を書き続ける老婦人。事故で死んだ母親の死が理解できずいじらしく帰りを待つ幼子。仲違いした父と息子の確執。
淡々と描かれる小さな村の情景はとても綺麗で哀しく、菊はぼろぼろと泣いてしまった。
きっと食事中の二人の様子がおかしいのに気がついて、何かあったとフランシスは察知していたのだろう。あえて感傷的な作品を選んで泣きたいだけ泣かせてくれ、そして何も聞かずにいてくれることに感謝する。
注がれるままに酒を飲み干し、途中から記憶がない。いつの間にか映画が変わっていて、大丈夫かと心配するフランシスに、「このまま寝かせてください」と口にしたことだけは覚えている。
夢現の中、フランシスとアーサーが何か話していた。ゆらゆらと揺れる温もりの中で眼を開けると、大好きな翠の瞳が覗き込んでいる。
嬉しくて、哀しくて、涙がこぼれたら、優しい感触が眦に落ちた。
――ああ、哀しいことは全部嘘だったんだ
ほっとして眼を閉じた。
けれども次の朝起きたら、自分のベッドの中にいて、隣には人の寝た痕跡はなかった。
back + Home + next
|
|
|