英国旅行記


 18
 
 
 
 昼食が抜きだった分、早めに夕食をとろうと、帰ってきて早々にフランシスはキッチンに陣取った。
 横で野菜の下ごしらえをする菊にあれやこれや話しかけていた彼は、その合間に話のついでのようなさりげなさで、問いを投げた。
「菊ちゃんがさ、アーサーに何も言わないのはなんでなの?」
「何も、とはなんのことでしょう」
 漠然としすぎて主語がつかめないその質問を軽く流すと、直球が返ってきた。
「んーいわゆる愛の告白?好きでしょ、アーサーのこと?」
 思いがけない言葉に驚き、顔を見詰める。その反応に、フランシスは笑った。それは人を喰ったような笑みだった。
「なんで気づいたのかって知りたいなら言うけど、聞きたくないよね」
 聞きたいけれど、聞きたくないのも事実だ。何より素直に聞きたいと返せない質問の仕方は、言うつもりはないという遠回しの牽制だろう。
「否定はしませんが……フランシスさんには関係ないことだと思います」
 表情を強ばらせる菊に、ふむ、とフランシスは首を傾げる。
「ええとなんだっけ、『馬に蹴られる』って言うんだよね、日本語では?」
「『人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られる』です。でも、フランシスさんは邪魔してるわけではないでしょう」
「してるつもりはないけど、菊ちゃんは俺のこと邪魔って思ってるよね」
「そんなこと――」
 あるよね、とにっこり笑う友人の前で、菊は黙り込んだ。
 気付いていたのだろうか。
 あの自分でも醜悪だと感じた、妬心から生じたあのドロドロとした感情に、目の前の友人は気付いていたというのか。ぞっとする恐怖に立竦む菊に、フランシスはからりと笑う。
「いやまぁ、別にそれはいいんだけどね、恋すりゃ皆多かれ少なかれ相手のこと以外は邪魔に感じるもんだしさ。だから菊ちゃんがそんな顔する必要ないよ。でもそれで邪険にされる身としては、関係なくもないかなぁと思うわけですよ」
 菊の狼狽をさらりと横に片付け、
「で、話を戻すけど、菊ちゃんがアーサーに好きって言わないのは、言ったら嫌われると思ってるから?」
 話を本筋に戻した友人に、首を振った。
「アーサーさんは、そんなことで私を嫌ったりはしません」
「そう言い切れるんだ?」
 念を押す言葉に、唇を噛みしめる。
 信じろ。
 自分も、自分の気持ちも、アーサーの真意も分らない今、信じるべきはこれまでの彼の言動だ。
 帰り道、泣きそうな気持ちを温めてくれたのはアーサーのシャツで、そのシャツにくるまりながら、菊はずっと考えたのだ。
 アーサーがどんなつもりでフランシスを呼んだのかは分からない。フランシスを呼んだのがアーサーというのも、菊の勝手な想像だ。その勝手な想像を元に、彼の感情を忖度するのは傲慢だし、それで傷つくなんて愚かでしかない。
 素っ気ない態度をとるのはアーサーの自由。それにアーサー自身、そう振る舞っている自覚がないのかもしれないし、たとえ意識していたとしても、そこには及びもつかない彼なりの理由があるとも考えられる。
 もちろんそれは自分に都合の良い想像で、不安から逃れようとしているだけなのかも知れない。
 でも悪い想像で勝手に傷ついて落ち込むよりは、前向きな方が絶対に良い。
「アーサーさんはちゃんと私のことが好きですから」
 幼なじみとしての情と、これまで二人積み重ねた時間を思う。
 たとえアーサーが自分の恋心を受け入れるつもりはなくても、それを理由に自分を疎んじたりしない筈だ。
 少なくとも昨日の晩、抱きしめて一緒に寝てくれた優しい腕は、胸の鼓動の音は、疎んじ嫌う相手に対するものではなかった。
 ちゃんと信じろ。
 弱くなる自分の心に言い聞かせる。
「私がアーサーさんに何も言わないのは、言う必要を感じないからです」
「本当に?」
 言い切った菊を面白そうに眺め、小さく「なるほど、そう来るか」と呟いていたフランシスは揶揄の口調で訊ねる。
「本当に君はそう思うかな?」
 重ねられた言葉の強さの訳が分からず、怯む。
「じゃあ、菊ちゃんはアーサーに何も言わないで休暇の最後まで過ごすつもり?」
 念押す言葉に眉が寄った。
「今はさ、お兄さんがいるけど、俺は明日には帰るつもりだよ。俺、元々バカンスは南で過ごす人だし、菊ちゃんがいるから遊びに来たけど、正直イギリスは趣味じゃないんだよね」
 菊ちゃんは好きみたいだけど、と呆れた口調で付け加える。彼は、何を言いたいのだろう。
「俺が帰った後、君はアーサーと二人きりだ。
――さて、今までと同じように過ごせるのかな?」
 今までと同じように、という言葉が耳に残った。
 問われるまでもなく、そうするつもりだった。けれども改めて問い掛けられると、不安が胸に広がる。
 フランシスに見抜かれていた感情を、二人きりになった時に押し隠し通せるのか。アーサーを困らせてしまわないだろうか。
「ごめんごめん、そんな顔をさせるつもりじゃなかったんだけどね。うーん、質問が悪かったかな」
 黙り込んだ菊の姿に、困ったような顔で首を傾げたフランシスは、暫し沈黙する。
 ぼんやりとその横顔を見詰めていた菊に、微かに嘆息を漏らしたように見えた彼は、改めて訊ねた。
「君は、どうしたいの?彼に好きだと告げたいの?」
「私は――」
 どうしたいのだろう。
 自分の気持ちに蓋をしたまま、アーサーと二人、穏やかで満ち足りた時間を過ごしたいというのが、何よりの願いのはずだ。
 ただ傍にいたいというだけならば、わざわざこの関係を壊す火種を持ちだす必要はない。
 だからこの気持ちを黙ったままでいよう、そう思っていたはずなのに。
 だがそれではダメだと、心の片隅で囁く声もする。
 自分はどうしたいのだろうか。
 途方に暮れた菊の手から転げ落ちた玉葱を、フランシスが拾う。
「……分かりません」
 ぽつりと呟いた菊の頭を、大きな手が撫でた。
 それは、「しっかり考えな」と言っているようだった。
 




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