英国旅行記


 17
 
 
 
 
 目覚めた時、部屋の中にアーサーの姿はなかった。
 昨夜の幸せだった気持ちが少しがっかりしたものに変るが、アーサーが食事当番だと思い出し、きっと自分を起こさないようにして朝食の準備へ行ったのだと考えた。
 だが、台所へ行くと居たのはフランシスだけだった。
「おはようございます。あの、アーサーさんは……」
「菊ちゃんおはよう。あれ?アーサーいないの?二人ともまだ寝てるのかと思ってたよ」
 フランシスが淹れた珈琲を飲んでいるとアーサーが帰ってくる。手には籐のバスケットがあった。
「お前、朝早くからどこ行ってたの?」
「湖まで散歩に行って、ついでに近くの農場から卵をもらってきた。新鮮な方が美味いだろ」
「湖まで行かれたのなら、起こしてくださったらよかったですのに」
「気持ちよさそうに寝てたから、起こさない方がいいと思ったんだ」
 二人が起き出す前には戻ってくるつもりが、牧場でおばさんの長話に引っかかって遅くなったのだと言う。それならばかなり早く出たのだろう。ここから湖まで二十分はかかる。そういえば、彼は毎朝菊が起き出す頃には庭の世話を終え、きっちり身支度をしていた。睡眠時間が意外と短いのかもしれない。
 アーサーが作ってくれた朝食は、伝統的な英国風朝食で、半熟卵の黄身の固まり方も完璧の一言だった。
 しみじみ感動のままに褒めると、困ったような照れたような顔で黙り込む。
 朝食をとりながら、今日の予定の話題になる。二人とも昨日と変らず低調だった。結局、どこか行きたい所を思いつくまで、家の中でのんびりしようという結論に落ち着く。
「何も出歩くだけがバカンスじゃないでしょ」
 とのたまうフランシスからは、持参したアニメの視聴に誘われるが、さすがにそれはアーサーに悪いだろうと遠慮しておいた。
 その代わり、地下室に転がっていたボードゲームを皆ですることにした。他愛のない賭をしながら、最上階のテラスでゲームに打ち興じるのは、休暇ならではの時間の過ごし方だろう。
 二度ゲームが終わると、時刻はお昼を過ぎていた。
 それでもまだお昼過ぎだから、今日は随分と時間が経つのがゆっくりだ。
 たっぷり朝食をとったせいで、昼ご飯は食べる気にならない。何をするでもなく、ビーチチェアーに寝そべって湖を眺めながらぽつりぽつりとフランシスと会話を交わした。フランシスの向こうにいるアーサーが会話に加わらないのは眠っているのだろうか。サングランスをかけているので分らない。
 なぜだかしらないが、妙につまらない気分だった。
 わざわざ国を越えて遊びに来てくれるほど仲良くしてくれるフランシスがいて、アーサーもいて、美しい風景の中にいて、満たされた気分であるべきなのに。
 なぜこの時間が味気ないものに感じられるのだろう。
 物足りなく感じるのはぼんやりと時間を浪費しているからなのだろうか。
 どうしたら――と考えこんだ菊は、ふと思いついた。
「あの、行きたい所、というか、したいこと思いつきました」
 会話が途切れた所で切り出すと、フランシスは興味津々の顔をする。
「ウォーキングをしたいです。良い所ありませんか、アーサーさん?」
 菊のその問いかけに、アーサーは身を起こした。
 
 
 アーサーが選んだのは、山間の狭間にある池を巡るフットパスだった。
 丘の上から見下ろす湖を一周するコースには、多くの人の姿がある。
 一周するのにほぼ一時間のコースは、森を抜け、小川を渡り、と起伏は緩やかながらも変化に富んだ道だ。
 小さな湖の辺では水鳥が遊び、鴨の群れがゆっくりと泳ぐ。遠くには水に飛び込みはしゃぐ犬もいた。
 綺麗に整備された道をのんびり歩きながら、すれ違う人々と挨拶を交わす。中には一言二言話を続ける相手もいるが、社交的なフランシスが受け答えに終始し、菊やアーサーは挨拶をするだけだった。
 今日のアーサーは口数が少ない気がする。
 濃色のサングラスをかけているせいか、少し離れて歩く彼の表情は分からない。
 アーサーと二人、圃場を抜け木々の中フットパスを歩いた時のことが、なんだか遠い昔のことのように思えた。あの時の風景とここの風景は同じくらい、いや、絵になる様ではそれ以上に美しいはずなのに、その半分も美しいと感じないのはどうしてだろう。
 すれ違う人全てが白人で、その中で一人有色人種の菊は好奇の眼を向けられるのを感じる。その視線に綺麗な白鳥の中に紛れ込んだ鴉のような居心地の悪さがあるせいか。
 それともなぜか妙に、アーサーが遠く感じられるからだろうか。
 二人きりで歩いたあの時も、交わした言葉はほんの少しだった。けれども二人で共有する温かく親密な空気が、言葉以上にお互いを結びつけていたのだった。
 自分はその空気が恋しくて、ウォーキングと言い出したのだ、と今更ながら自覚する。
 だが二人だけでいた時には存在していたあの空気は、フランシスという第三者の存在で霧消している。
 そのことが、今、自分の感じている物足りなさの要因なのだろう。
 
――どうしてフランシスがここにいるのだろう
 
 すれ違う夫婦とにこやかに談笑するフランシスをぼんやり眺めながら、今更の疑問を抱く。
 今まで菊がイギリスに遊びに来た時、フランシスが顔を出したことは一度もなかった。
 彼が菊と顔を合せるのは、日本に遊びに来た時と仕事絡みの学会の時くらいだ。それなのになぜ、今回、フランシスは来たいと言い出したのか。
 フランシスと菊の仲に、嫉妬に近い感情を抱き、なによりも菊との時間を大事にするはずのアーサーが承知するというのも妙な話だ。けれどもアーサーが良いと言わなければ、彼は来るはずがない。その点の線引きはきっちりわきまえている男だ。
 もしかして、フランシスはアーサーに呼ばれて来たのではないだろうか。
 今まで想像もしなかった考えに、はっ、と瞠目する。
 となれば、言葉の端々に感じたフランシスの当てこするような揶揄も納得できる。
 どうして、という疑問は自問するまでもなく、答えが浮かんだ。
 アーサーが、自分と二人でいたくなかったからだ。
 しかしそれは何故だろう――
 彼がフランシスを呼んだのは、恐らく一昨日だ。その時点で、自分でも恋と自覚しなかったあの淡い気持ちを、彼は察知していたというのだろうか。
 いや、それはありえない。
 もとより、「お前の意思表示は分りにくい。思ったことははっきり出していんだぞ」と言われるくらい、菊の表情は読みにくいらしい。その上で、アーサーに対するふわふわとした淡い憧憬のような、美しいものを愛でるような、そんな柔らかい気持ちを、自分は大切に温めて、表情に出さないようにしていた。
 彼と握手するだけで、否、視線を向けられるだけで赤くなり、舞い上がる人間に、アーサーが冷淡な見方をしているのを菊は知っていたからだ。
 向けられる讃辞や羨望、賞賛の眼差しは当然としながらも、しかし己に向けられる露骨な感情表現を、彼は好んでいない。
 もっともその他大勢に向ける冷ややかな眼差しを、彼が自分に向けることはけしてないと確信していた。
 彼が一度懐に入れた人間に、そして庇護するべきと認識した者に酷く甘いのは、それは彼の従兄弟にして、菊の友人であるアルフレッドに見せる過干渉からも明白だ。そして菊も、彼より年上であるものの、その一人と思われているのを知っている。
 恐れたのは、彼が自分の心の揺らぎを知り、それを過剰に意識してぎこちなくなることだった。気にしないでくださいと言って、その通りに振る舞えるほど彼が器用な性質ではないことは分かっていた。
 要するに、自分はアーサーとの間にほんの少しでも隔意が生じるのが嫌なのだったのだ。
 とはいえ、彼への恋心を自覚したのは昨夜で、あの時点では淡く自分でも判別がつかなかったその感情を、彼が先に気付いていたというのもおかしな話だ。論理的に考えて、それはありえないだろう。
 けれども他に理由が思いつかない。
 それとも、恋云々を抜きにしても、自分との時間が気詰まりだったのか。
 あの小さな村での二人だけで満ち足りた黄金の時間。光も緑も全ての色が美しく、世界が輝いて見えた幸福を、自分は彼と共有していたと信じていた。
 けれども、それは自分の独りよがりだったというのだろうか。
 言葉にしなくても微笑みあう、それだけで心は添うて、同じ感覚を分かち合っている。そう告げているかに見えた翠の瞳は、己のそれとはかけ離れたことを思っていたのか。
 自分の信じていたものが崩れ落ちていくような喪失感に、目眩にも似た衝撃を覚えた。
 目の前に広がる空も景色も、記憶の中の何もかも、全てが色褪せる。
「菊ちゃん、顔色悪いけど疲れた?」
 雰囲気の変化を感じ取ったのか。しげしげと顔を覗き込みフランシスが訊ねる。彼の顔を見た瞬間、自分でも狼狽えるほど強い感情が湧き上がり、呆然とする。
「……ありがとうございます、大丈夫です」
「ならいいけど、お昼食べてないからお腹空いたかなぁ。早めに帰ってご飯作ろっか」
 一拍置いて、気を落ち着かせて返した菊に、フランシスは不審を感じた様子もなくにっこり笑う。
 心配してくれる大事な友人に、八つ当たりでしかないどろどろと汚い敵意を抱いた自分が許せない。
 笑顔を返しながらも、泣きたい気持ちになる。
 ちらりと視線を向ければ、アーサーは二人のやりとりを気にかける風もなく、遠くの山を眺めていた。
 普段こんな場面では、菊が気後れするくらい気を回すのに。本当に自分のことが疎ましくなったのだろうか、と哀しい気持ちがますます募る。
 けれども、車に戻る途中、
「寒いならこれ着とけ」
 と彼が着ていたシャツを問答無用で押しつけられ、さらっと微風が吹くさりげなさで、頭を撫でられた。
 反則だ、と思った。
 




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