英国旅行記


 16
 
 
 
 眩しい光を感じて眼を開いた。
「大丈夫か?」
 金の髪の美しい男が訊ねる。
 これは誰だ。
「大丈夫か、菊?」
 そう囁かれ、自分が本田菊で、彼がアーサー・カークランドという幼なじみだと思い出した。
 名前が浮かぶと、一気に記憶が甦る。
「大丈夫って、何があ…れ……?」
 起き上がり、自分の頬に感じる妙な感触に手をやり、てのひらが濡れたことに驚く。
 涙を流していたのだった。
「また夢でも見たのか?」
 心配を面に出さないようにか、アーサーは奇妙に強ばった顔をしている。また、という言葉に昨夜も彼に起こされたことを思い出した。
 夢は――見ていたのだろうか。何も思い出せない。
 だがこうしてアーサーが不安げな顔をしているということは、きっとまた魘されて、彼に迷惑をかけたということなのだろう。
 
――ああ、それでなのか
 
 彼が同室を躊躇ったのは、この為か。
 昼間に感じた違和の理由が分かった気がした。
「すみません、アーサーさん。私、一人部屋で寝ればよかったですね」
 唐突な言葉に眼を瞠るが、彼は何も答えない。
「昨夜のことがあったから、アーサーさんは一緒の部屋が嫌だったんでしょう」
 黙ったままのアーサーは返事に困っているのだろう。
 アーサーを困らせている。迷惑をかけているのだ。
 口に出して初めて知った事実は思いがけぬほどの衝撃だった。泣きそうな気持ちをぐっと歯をくいしばって堪え、言葉を絞り出す。
「すみません、私、今からでもソファーで――」
「待てよ、別にそういうわけじゃなくて、」
 言葉を遮るアーサーは、焦ったように腕を掴む。
「だから、その、一人で寝た方がお前にとって楽かと思って……だって俺が起こさなければそのまま気づかず寝てたかもしれねぇだろ」
「でも起きて一人ぼっちは、寂しいです……」
 反射的に言葉が零れた。
 甘ったれた子供みたいなことを言っている。
 後悔はすぐに押し寄せる。だが、傍にいて欲しい、傍に居たいという気持ちが勝った。
 子供みたいだと思われても、年上のプライドなど投げ捨てても、それでもいいからアーサーに触れたい、アーサーに触れられていたい。
 腕を掴むこの手の温もりが離れていくのが嫌だ。
 
――本当に自分は彼のことが好きなのだ
 
 泣きたくなるような思いで俯く。
 自覚した恋心は苦かった。
 プライドを投げ捨てても、という気持ちなどろくなものではないと分かっているのに、恋うる気持ちが抑えられない。けれどもその彼を今困らせているのは自分だと気付けば、どうしていいのか分からない。
「……ごめんなさい」
 寂しいなんて言わなければ良かった。
 黙って、彼の言葉に同意して、一人の部屋にして欲しいといえば良かったのに。
 もしかすると今日の運転も、昨日の寝不足のせいでできなかったのではないだろうか。
 酒を飲まなかったのもそうだ、万が一魘された時、起こしてくれようとしてのことという気がする。
 現に今、こうして起こしてくれたのだ。隣で魘される声が耳障りと思うのなら、酒を飲んで先に寝てしまえばいい。
 それなのにアーサーは――
 不意に掴まれた腕を引っ張られる。
 気がつけばアーサーの胸に抱かれる形で、布団に倒れ込んでいた。痛いくらいにぎゅっと抱き締められていると気づき、心臓が早鐘を打つように激しく響く。
 驚きで言葉が出ない。
「嫌な夢を見たり具合が悪い時、誰かにいて欲しいと思うのは当たり前だろ、いちいち謝んな」
 真っ赤に染まっている筈の耳に囁くのは、怒ったような声だ。
「か、勘違いするなよ、別に変な意味じゃなくて、その、だから――」
 小声で声を荒げるアーサーも緊張しているのだろう。
「嫌だったら言えッ!」
「嫌じゃないです」
 間髪いれず、囁き返した。
 嫌なわけがない、そう思う。
 手探りをするようにお互いに心地よい距離を保ってきたのが自分たちの関係で、ことのほか礼儀を重んじる彼にとって、一足飛びにその垣根を跳び越えるような真似は、どんなにか勇気がいったことだろう。不器用に示してくれたその優しさが泣きたいくらい嬉しい。
 舞い上がって頭に昇りきった血が幾分落ち着くと、彼の心音もまだ同じくらい早いことに気がつく。
『変な意味』で好きな自分と同じくらい緊張してくれているのだと思えば、いっそう申し訳ないような嬉しいようなくすぐったい気持ちになった。ぴったりとくっつくと、何よりも先に安堵感が満ちた。居るべき場所に帰ってきた、そんな不思議な感覚だ。
 犬猫のするような仕草で、ぐりぐりと額を彼の鎖骨辺りになすりつけ、気持ちの良い場所に頭を落ち着かせる。その間、アーサーは諦めたように、菊のしたいようにさせてくれ、落ち着いたとみると小さく囁いた。
「寝ろ。眼を瞑って十まで数えたら、お前はもう夢なんか見ないから」
 そう言って数を数えていく低い声に眼を閉じた。
 綿ローンの薄いパジャマの腕が、耳に触れている。
 くったりと柔らかい布の感触と、そこから伝わるほのかな体温が心地よい。
 頭を抱きしめるようにまわされた腕が重くないのは、体重をかけないようにしてくれているからだ。こんな所まで、やっぱり彼は優しいと、微睡みの中で思う。
 ずっと昔から知っている、これはとっても懐かしい感覚だ。
 このままずっと時間が止まればいいのに。
 十を過ぎても続けられる声をうっとりと聞きながら、菊はそう願った。




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