英国旅行記


 15
 
 
 
 
 ケズウィックの街の外れにあるストーンサークルに辿り着いた時には、眩しい白い太陽は夕日に変わっていた。
 広い土地に人の背より大きな石が楕円形に並んでいる様は、日常から切り離された異景だ。なんの意図でこのようなものを作ったのだろう、と不思議に思う。
「しっかし寒いわー、今七月なのになんでこんなに寒いの。さっきまで暑いくらいだったのに」
 灰色の雲がいつの間にか夕日を隠し、急に辺りが薄暗くなっている。それと同時に感じた寒さを、同じようにフランシスも感じていたのだろう。身震いをして腕をさすっている。
「仕方ないだろう、もうじき日が沈むんだから」
 寒さには慣れているのか、アーサーは平気な顔だ。
「にしても寒すぎだろ。なんとかしろよ、アーサー」
「俺に言うな、自然現象だ!あ、てめぇ、菊に抱きつくな!」
 寒い寒いと抱きしめてくるフランシスにめくじらを立てて、アーサーが引き離すと、余計に寒く感じた。フランシスのように屈託なくアーサーに抱きつけたらとちらりと考えるが、その考えはすぐに打ち消す。
 アーサーのことだ、きっと抱きついても怒りはしないだろうが、困惑するに違いない。
 せめて手を繋げたらいいのに。
 いじましくちらりとアーサーの大きな手に視線をやるが、その考えも振り払った。
 以前のように何も考えず手を握るなど、今の菊にはできない。偶然手が触れるだけでも意識してしまうのだ。手など繋いでポーカーフェイスを保つ自信はなかった。
 それに何よりもフランシスがいる。手など繋いだら彼になんと思われるだろう。アーサーをからかうことにかけては天才的な能力を発揮する彼のことだから、好機ととらえちくちくとアーサーに絡むことだろう。
 アーサーが不快に感じる切っ掛けをつくることなどできないし、したくもない。
 そう自分に言い聞かせると、思った以上の落胆が襲ってきて、寒さと相俟って萎んだ気分になる。
 車に戻って外気温を確かめれば、十五℃まで気温が下がっていた。昼頃に見た時は二十八℃だったので、気温差は実に十三℃だ。
「いくらなんでも下がりすぎだろ」
 ぼやくフランシスは、寒い時はワインに限ると主張し、レストランへ向かうことになった。
 伝統的なイギリス料理、食事も食べられるパブ、中華、スペインのバール、タイ料理、イタリア料理と選択肢を上げられ、少し悩んだ末、菊はバールを選んだ。
「バールといっても、オーガニック系のシェフが手がけてて、料理教室なんかもやってるらしいぞ」
「イギリスで料理教室ねぇ」
「だったら美味しいかもしれませんね」
 美味しいものを食べると気分も明るくなるかもしれない。そう期待する。
 予約なしで入れた店は、若者が多かった。野菜メニューが多く、オリーブや香草がふんだんに使って味もきっちり付いている料理は、どれも美味しい。フランシスの酷評や一昨日の茹で野菜を思い出し、良い店を選んだのだとほっとした。
 薄切りのゴボウに似た根菜の揚げ物が和食っぽいとフランシスと盛り上がりながら、ふとアーサーのグラスが満ちたままだと気づく。
「あの、アーサーさん、お酒が減ってないようですけど、いいんですか?」
 車は朝までなら無料でパーキングに置けるから大丈夫だと言っていたし、今日の運転はずっとフランシスだったので気にしていなかったが、もしかして運転して帰るつもりで飲んでいないのだろうか。
「まぁまぁ、菊ちゃん、飲めるのに飲まないのはアーサーの勝手だから」
 口を挟むフランシスは、先に気がついていたようだ。だったら先に言ってくれたら自分が飲まなかったのに、とこっそりフランシスを恨めしく思いつつ、気が利かない自分に少し落ち込んだ。
「こいつんとこ、飲酒に関してはうちより酷いよ。飲酒運転なんか超ゆるゆるで血中アルコール値が八〇ミリまでOKなんだよね。だからこっちじゃエールを一パイント(500ml)までは飲んで良いって言われてるんだよ」
「ええとじゃあ……?」
 酒好きのアーサーならば、そんな緩い規制では飲酒運転にはならないと言って飲みそうなものなのに、何か他に理由でもあるのだろうか。
「そりゃあ、菊ちゃんを乗せて帰るからでしょ」
「ち、ちが、ちがうぞ!別にお前のためじゃなくて、単に俺が、その、そんなに飲みたい気分じゃないだけなんだからな!」
 まさか、という思いは、しどろもどろに弁解するアーサーの態度で確信に変わった。
「あの、本当にタクシーを頼んで帰ればいいので、アーサーさんも飲んでください」
「いらねぇって言ってんだろ!」
「でも……」
「まぁまぁ、アーサーが飲まないって言ってるんならいいじゃん。それにこいつに外でパブられても困るしさ。危ない自覚があるから飲まないって言い張ってんだよ、これ。アル中に酒勧めるような真似するのは良くないよ」
 誰がアル中だ、と噛みつくアーサーは、頑として酒を飲まないつもりなのだろう。ウェイターにノンアルコールのジンジャービアを注文する。本当に良いのだろうか、と困惑する菊に、
「どうでも気になるなら菊ちゃんがアーサーの分まで飲んであげなよ」
 とフランシスはアーサーが手を付けなかったグラスを菊の前に置いた。それはどういう理屈だと疑問を感じるが、酒を勧められ、断り切れず杯を重ねる。
 言葉巧みなフランシスに勧められ、酒豪の彼のペースに引き摺られて飲んだ挙げ句は、すっかりフラフラになり、ベッドに辿り着くのがやっとの有様となった。
「大丈夫か?移動ばっかりだったから疲れたんじゃねぇのか?」
「いえ、楽しかったです」
 どうにか一人で部屋まで戻ったものの、ばったり倒れ込んだ菊の靴を、甲斐甲斐しくアーサーが脱がせてくれる。自分で、と身を起こそうとすると、寝とけとおでこを弾かれる。
 それに甘えて、ぐったりと力を抜いた。
「アーサーさんは……」
 楽しかったのだろうか、とふと思う。明るく賑やかなフランシスにつられて、軽妙な会話をしていたが、観光案内以外では自分からはあまり口を開かなかった気がする。
「俺がどうした?」
 呆れ顔で世話を焼いてくれる彼に真意を尋ねても、菊の心に負担を与えないように、望む言葉を返すだけだと分っている。自分が彼の立場でも同じことだ。
 他人行儀というのではない、ただ相手に嫌な思いをさせたくないだけで、そのような感覚は不思議なくらい似たもの同士なのだった。だからこそ、国も人種も話す言葉も違い、遠く離れた地で暮らしているのに、今までずっとこの交友が続いているのだろう。
 けれどもなぜか、今はその遠慮が寂しい。
 なんだか闇雲に心細くて、泣きたい気分になるのは酔っぱらっているからだろうか。
「お酒、飲まなくてよかったんですか?」
「そうだな、ちょっと一杯ひっかけてくる」
「じゃあ、付き合います」
「莫迦、いいからもう寝てろ。ふにゃふにゃになってるくせに、それ以上飲んだらひっくり返るぞ」
「失礼な、私、酒は強いんですよ」
 言いながらアーサーの腕に抱きつく。アーサーの腕だ、と思うと嬉しくて、一瞬前までの寂しさが吹き飛んだ。自然と笑みが零れる。
「酒に強いって、お前……それなのにそんなに酔ってるってことは、体調悪いんだろうが。俺が帰ってくるまでに寝とけ」
 怒ったような口調のアーサーを見上げれば、困ったような顔で、子供にするように寝かしつけられ、腕を外される。不服で唇を尖らせると、困り果てた顔で頭を撫でられた。
 眼を閉じると心地よい酔いでふわふわと空を浮いているような気持ちになる。
 撫でる手が優しい。アーサーさんはきっと良い父親になるのだろうなと思った所で記憶が途切れた。
 




back + Home + next