英国旅行記


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 旅行の時に必ず茶葉を持参するのがアーサーの常だ。今回も彼が持ってきたお茶を飲みながら、これからの予定について意見を出し合ったが、
「別に俺は菊ちゃんに会いに来ただけで、正直イギリスの観光地なんか興味ないんだよね。これくらいの景色、うちにもあるし」
 とはフランシスの言。
「俺は菊が行きたいとこに付き合うぞ」
 と二人から話を振られ、言葉に窮した。
 菊にしてもさして観光がしたいわけではないし、そもからして何があるのかも良く分っていない。湖水地方と言えば――
「……ピーターラビットとワーズワースが有名なのでしたっけ?」
「ああ、日本人はピーターラビット好きだよな」
「ヒル・トップに行きたいなら近くだから行けるが、今はちょうど観光シーズンだからかなり待つと思うぞ。それよりはワーズワース関連の方がましだろうな」
「あー一応グラスミアの中と郊外に見所が分散してるみたいだからね」
 アーサーが持ってきた湖水地方のガイドブックをめくりながら、フランシスが呟く。
「でもワーズワースにそこまで興味がないなら、彼が好きだったっていうジンジャーブレッドの店が観光名所になってるらしいから、そこ行った方がよくない?」
 花より団子ですか、とがっくりするが、確かにワーズワースと言われても、詩の一編も暗唱できない程度の興味なのであった。もちろん菊が行きたいと言えば二人ともどこへでもついてきてくれるのは分かっているが、その程度の興味では、やはりジンジャーブレッドのお店で充分なのかもしれない。
 しかしジンジャーブレッドのお店だけでは物足りないだろうということで、ケズウィックの先にある景勝地に足を伸ばすことにした。
 
 
 橋を渡った所にあるジンジャーブレッドの店には観光客の姿が多い。
 三人も入れば一杯になる対面式の小さな店には、看板商品の他にもこの地方のお菓子が置いてあった。
 看板商品のジンジャーブレッドはしっかり生姜が利いていて、甘ったるくない。気が利くフランシスが一緒に買ったジンジャービアとレモネードで喉を潤しながら、ドライブを続ける。
 グラスミアからケズウィックへ向かう道は山に囲まれどこか荒涼としたイメージだ。途中には湖もあるが、同じ湖の傍を走るウィンダミア周辺とは趣が違う。
 ホント珍しく良い天気だこと、とフランシスが感嘆する空は、今日も良く晴れている。アーサーが貸してくれたサングラスなしでは眩しくて視界に白い靄がかかっているように見えるほどだ。
「良い天気ですよね。でも私、イギリスで雨降りだったことってあんまりないような気がします」
「ふーん、そりゃものすごく珍しいね。お兄さんなんか、イギリスでは毎回雨よ。しかも傘をさすべきか悩むような霧雨ばっかりでさ」
「ああ、イギリスの雨は霧雨っていいますよね」
「だから晴ればっかりってすんごく珍しいと思うな。よっぽどイギリスに好かれてんだろうね、なぁ、そう思わないか、アーサー?」
「ちょ、危ねぇから前見ろヒゲ!」
 後部座席を振り返るフランシスに、アーサーが焦り怒った声を出す。その慌てた様に、フランシスはあははははと大声で笑う。
 スレートという石を積んだ塀が、道の両脇に茂る緑を押しとどめているような道を車は走る。左手にはダーウェント湖。緑の合間から水面が見え隠れする。
 石塀の内側にはフットパスがあるのか、たまにウォーキングやランニングをしている人の姿も見かける。皆、スポーツウェアにリュックを背負った本格的な装備だ。
 湖水地方でもやや奥まった所にあり観光の拠点となる名所もないこの周辺は、自然を楽しむための場所なのだろう。
「ここからは少し狭くなるぞ」
「さっきまでの道も充分細かったけど……って、これ前から車来てすれ違えるの?本当に車で入って良い道なわけ?」
 ハンドルを握るフランシスがぼやく。
「安心しろ、この先には村がある」
「本当かよ」
 と呆れた声を出す気持ちが分かるほど狭い道だ。やがて道の先に、小さな石橋があらわれた。名所になっているのか、石橋の上や、細い谷川の辺に人の姿がちらほらある。
「もしかしてあの橋を渡るの?あれ、車用なわけ?」
「他のどこに道があるってんだ?」
「……勘弁してくれ」
 橋に立っている人物比でもかなり小さく見える橋を通らねばならないと言われ、フランシスはがっくりと肩を落としたが、最徐行で無事に渡り終えた。
 車で更に奥地に登っていくと、道はまだ細くなる。だが途中にはB&Bの看板を掲げた家や、牧場の入り口があり、人里の気配もする。
 やがて道脇の車が何台か停まっている駐車場に車を停めた。
「ここが目的地、サプライズ・ビューだ」
「まさかと思うけど、その捻りのない単語が地名?」
 その通りだ、と肯定するアーサーに、やれやれと呆れたようにフランシスは肩を竦める。
 だが、驚きの眺望というその名前負けをしないくらい、崖上の拓けた場所から見下ろす世界は美しかった。
 すぐ真下に長細く広がるダーウェント湖の全容が見渡せ、ケズウィックの街の端や周囲を取り囲む山麓、その先にも稜線が見える。からりと乾いた空気で、全ての色が鮮やかで、澄んだ夏の光に輝いている。
 建物全てをナショナル・トラストという自然保護団体が保有している展望所の先にある小さな村で折り返し、来た道を戻る。途中、フライアーズ・クラッグというダーウェント湖の辺に立ち寄った。ここから見えるのは、湖に浮かぶ四つの島だ。
「ラスキンはここからの眺めはヨーロッパ三景の一つだと賞賛したんだぞ」
「残りの二景はどこなんだろうね」
「さあな、少なくともフランスにはないだろうな」
「なるほど、美の中心であるフランスに来たことがない田舎者だったってわけね」
 軽口を叩き合う二人の会話に微笑みながら、大きく伸びをする。少し傾いた太陽は穏やかで水面を渡る風は少し涼しかった。




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