英国旅行記


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 ロンドンユーストン駅から北部イングランド最大の都市マンチェスターまで、高速鉄道でおよそ二時間。
「そんなに早く着くものなんですね」
 定刻通りに滑り出した車内を興味深く眺めながら、菊は呟いた。そわそわと落ち着きなく廻りを見回す様子をアーサーが面白そうに眺めているのに気づくが、なにしろ初めて乗る列車なのだ。仕方がないではないか、と内心で言い訳をする。
 幼なじみのアーサーこと、アーサー・カークランドとは、彼が幼い頃に父の仕事で日本にやってきた時からの付き合いだ。初めて会ったのは家族も招待された仕事絡みのパーティーだったように覚えている。
 日本語しか話せない菊と、英語しか話せないアーサーは、最初はじゃんけんもできないレベルの意思疎通だったが、不思議と馬が合い、家が近いこともあって一緒に遊ぶようになった。長い時間を共に過ごせば、言葉が違っても意思の疎通はできるようになる。数年後にアーサーが帰国する頃には、互いが自国語を使いながらの会話が難なく成立するようになっていた。
 帰国してからもぽつぽつと手紙や電話のやりとりは続き、休みごとにアーサーが日本にやってきて休暇の終わりまで過ごしていくようになった。
 プライドの塊のようなアーサーは、どうやら本国で上手く友人ができなかったらしい。そんな事情も漏れ聞いては拒むこともできず、また菊にしても、違う言語を使ってもすんなり意思の疎通ができるほどの友人ができなかったこともあり、菊が大学院を卒業し、そのまま研究者として大学に勤務するようになっても休み毎の行き来は続いている。
 今回は研究に一段落ついて、研究室のスタッフ全員早めの夏休みをとるようにとの上司からの指示が出たところに、アーサーからの連絡があり、休暇の計画がトントン拍子で決まったのだった。
 どこへ行きたいと聞かれて、のんびり田舎で過ごしたいと答えたが、詳しい地名を聞いてもさっぱり分らないのはいつものことだから、行き先はアーサーに適当に決めてもらった。菊が伝えた要望は、できれば列車の旅がしたいということと、質素な旅でお願いしたいということだけだ。
 爵位もあるというアーサーの家と違い、菊の家はといえばまるっきりの庶民の家柄、たまの休みに海外に子供を送り出せる程度の財はあれど、城のような豪邸に住み、各地に別邸を持つカークランド家とは雲泥の差がある。
 綺麗な屋敷は見学する分には感心するだけで済むが、滞在すると緊張の連続だ。命の洗濯の旅に緊張続きは勘弁して欲しいという意向を察してくれたのだろう。分ったと笑うアーサーの大学院の試験が終わる時期に合わせて、菊が英国を訪れたのだった。
「飛行機だともっと早いぞ。四十分くらいだったか。そっちの方がよかったか?」
「いえいえ、列車で結構です。二等車でもよかったくらいですよ」
「だが、二等車だとこういうサービスはないからな」
 その言葉が聞こえたのだろう。笑顔を浮かべながらやってきた乗務員が、食事のサービスを告げる。本格的な朝食も、軽い朝食も可能だという言葉に、時間が気になりホテルの軽いコンチネンタルの朝食をそそくさと口にしただけだった菊は、少し迷いスモークサーモンとスクランブルエッグの朝食を頼んでもらうことにした。伝統的な英国風朝食を頼んだアーサーに、
「毎回のことですけど、アーサーさんと一緒だとついつい楽をしてしまいます」
 そう思わず口にすれば、よく分らないといった顔をされた。
「だって面倒な会話を全部アーサーさんにお願いしてるでしょう。英語で喋らなくて済むってすごく楽で、ちょっと罪悪感を感じます」 
「でも日本では逆に俺が菊に全部頼んでるだろう。それに手紙やメールは英語でもらってるしな」
 いいんじゃないのか、と言われて、そんなものだろうかと首を傾げていると、
「言語なんて所詮意思疎通のためのツールだろ。食べ物の注文程度誰がしたって、ちゃんと通れば関係ない。もっとも一対一の関係で、話しかけられてるのに無視したり、すぐに他人に頼りすぎるのはどうかと思うが」
 と肩を竦める。
「そうですよね。ちゃんと自分で返事できるよう頑張ります」
「……そういうところが真面目だよな」
 呆れたように笑うアーサーと会話を続けているうちに、テーブルが綺麗にセッティングされ、紅茶の後に朝食が運ばれてくる。煮豆とマッシュルームがないとアーサーはぼやいていたが、スモークサーモンは塩とレモンをかけると美味しかった。
 この会社の列車には編成ごとにイギリスの冒険家の名前が冠されていて、この列車はエリザベス一世時代のウォルター・ローリー卿の名をもらっているのだという。食事を終え、紅茶を飲みながらそんな話をしているうちに、列車は途中の駅に止まり、また発車する。
変わらずに続く緑の丘や、灰色の石垣を眺めながら他愛のない話をしていると、終点のマンチェスターまですぐだった。




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