英国旅行記



※ 人名使用
※ 時事を含みます
※ 以上が地雷の方は廻れ右で。













序章



 不慣れな英語でチェックアウトを頼み、レシートの金額を気張って確かめながら慎重にカードの請求書にサインをする。昨今では暗証番号(PIN)の入力が主流になってきたのに、このホテルでは珍しくサイン式だ。
 大きなグローブトロッターをもたもたと動かすのを見かねてか、ベルボーイが荷物を引き受けてくれた。
 チップは払うべきなのだろうか? いくらポケットにいれていただろう? 
 階段の下で焦りながら礼を言いポケットを探っているうちに、車寄せに停まったキャブから降り立った到着客へとベルボーイは去っていく。どうしようと途方にくれて立ち尽くしていると、眼が合った彼はにこやかに「 Have a nice day ! 」と声を掛け、新しい荷物を運んでホテルの中へ消えた。反射的に笑顔を返しはしたものの、力なく肩が落ちる。
 気を取り直して地下鉄駅へと足を向けた。時計の針は九時過ぎを指している。
待ち合わせの駅まで乗り換えなしで二駅。九時二十分の待ち合わせには問題なく間に合うはずだ。よく停まる地下鉄が支障なく運行すればの話ではあるが。
 幸い内心危惧していた遅れはなく、予定通りに列車は駅へと滑り込んだ。待ち合わせのドラッグストアはホームをでるとすぐに見つかった。約束の時間までぎりぎり五分ある。ほっと安堵の息を漏らし、足早に店正面を目指した歩みはその手前で止まった。
 待ち合わせの相手は既に来ていた。
 長袖の綿シャツに、折り目のきっちりとついたトラウザーズ。夜明けにはぐずついていた空も、今は晴れ間が覗くバカンス日和というのに、Tシャツとジーンズのような砕けた格好をしていないのが彼らしい。
 石膏像のように端正な横顔は、不機嫌そうに口を引き結んでいてもその美しさが損なわれていない。英国人の理想を選りすぐったような身体のパーツと貴族然とした佇まいに、目的地へ急ぐ人が集う駅というのに通り過ぎる人の多くが彼にちらりと視線を向けていく。
 空気すらも違って見える姿に気後れを感じ、ぼんやりと立ち尽くしていると、視線に気づいたのかこちらを向いた。
 視線が合うと、一瞬ほっとしたように眼差しが柔らかくなり、だがすぐに探るような色が翠の瞳に浮かぶ。
 何をしているのか訝しんでいるのだろう。
 早く来いよ、と言わんばかりに気難しい少年のような表情だ。

――ああ、知っている顔になった

 ほっとして駆け寄り、ひょこんと頭を下げる。
「お久しぶりです、アーサーさん。この度はお世話になります」
「よく来たな、菊」
 差し出された手を握り返す。
 久しぶりに会った幼なじみの手の大きさにドキリとする。
 こんなに大きな手だっただろうか。
「荷物はそれだけか?」
「はい、あ、自分で持ちますよ」
「いいから貸せ。お前に持たせてたら危なっかしいしとろい」
 強引に旅行鞄を引き取ると、行くぞ、と踵を返した。
 おろおろと手を出そうとすると、「鞄のファスナーが開いてる」と不機嫌な声が指摘する。三分の一くらい開いていた斜め鞄の口を慌てて閉める間、彼は足を止めて待っていてくれた。
「電車は四十分発だからまだ時間がある。ラウンジでも行くか?」
「ラウンジ、ですか?」
 一等車用の待合が近くにあるという彼に、少し考えて首を振った。
 電光掲示板には既にホームの番号が出ていたはずだった。
「どうせ時間があるなら、早く行って乗る列車を見たいです」
「だったらもう乗ってしまうか」
「はい。そうしましょう」
 迷いない足取りで進む彼の後ろをついて行く。平日のピーク時を過ぎたとはいえ、ロンドン有数の駅はまだかなりの混雑だ。はぐれないようにか幾分歩く速度を緩めてくれたのに気づいて、こっそり微笑んだ。
 こういうさりげない優しさが実に彼らしい。
 プラットホームには鮮やかな色の流線型の車体が停まっていた。
 思い描いていた汽車のようなレトロな車体とは程遠いその姿に戸惑っているのに気づいたのだろう。隣で笑う気配にむっとして、足を踏み出した。
「行きましょう」
「おい、どの車両か分らないだろうが」
 呆れたように追いかけてくる彼に導かれ、タラップを上がる。

 それが旅の始まりだった。



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