20091225日、埼玉第九合唱団第72回演奏会は<炎の指揮者 コバケン>こと小林研一郎さんによるベートーヴェンの『第九』だった。指揮者とソリスト陣が名立たることもあってか、大宮ソニックシティ・大ホール2,500席は発売早々に完売した。ソリストは、ソプラノ:菅 英三子、アルト:相田麻純、テノール:錦織 健、バリトン:青戸 知、オケは日本フィルハーモニー交響楽団という錚々たる布陣である。

 日本フィルは、幕開けにパイプオルガンの演奏をしたあと本命の『第九』に入るのがいつものやり方のようだが、会場の大宮ソニックシティ・大ホールには残念ながらパイプオルガンがない。そこで、今回も前回に引き続き演奏の代わりにコバケンさんのプレトークがあった。コバケンさんは、10分ほどお話しますと始めたが、終わってみたら20分かかっていた。

 ベートーヴェンは聴覚を失った。ベートーヴェンにとってこれほどの苦悩はない。作曲家として最悪の状態に追い込まれたベートーヴェンに思いを馳せるとき、コバケンさんは涙を禁じえないという。教会の鐘が右に左に揺れる、しかしそれを見ているベートーヴェンの耳にはなんの音も聞こえない。そのことを知ったとき、ベートーヴェンは愕然とし、絶望に打ちひしがれた。さらに追い打ちをかけるような内臓疾患やらなにやらたくさんの病、そんな苦悩を抱えながらも不屈の精神で立ち上がり、すべての不幸を受け入れ、全世界の人々に向かって「苦悩を超えて歓喜に到れ」と叫ぶベートーヴェン。
 コバケンさんは、9歳のときに『第九』を聴いて涙を流した。そして、作曲家を志した。のちにハイリゲンシュタットのベートーヴェンの家を訪ねたとき、一歩一歩その家が近づくにつれ、涙が止めどもなく流れたという。



 指揮者は作品と対峙したとき、作曲者や作品のさまざまな背景を探求し、一つ一つの音に秘められた謎を、行間の宇宙を解き明かそうとします。そして作品と自らの感性がまさに融合しようとする瞬間、新たなる世界の発見に心の高まりを覚えるのです。それをタクトで表現しえたとき、音楽が色彩豊かに奏でられ、仲間たちと至福のひとときを共有することができるのです。

小林研一郎  




 プレトークでは、ベートーヴェンの人となり、音楽に対する思い、そして『第九』がどのような構成でできているかなど、ピアノを使いながら解説した。なるほどと思わせる話がたくさんあった。このレクチャーは、多分に教育的啓蒙的な感じがするが、『第九』を聴きなれない方にはとても参考になったのではないだろうか。もちろんわれわれ歌う側にとっても触発される点がたくさんあった。

 冒頭「タ ターン」と提示される二つの音、そのモチーフがすこしずつ膨らみ変化しながら、徐々に展開し、気付きにくい隠された音・メロディが散りばめられ、和音の中間音がない「空白の五度」、そして最後に苦悩を突き抜け、歓喜に至る。コバケンさんは、まさに「一つ一つの音に秘められた謎」そして「行間の宇宙」を解き明かしてゆく。シューベルトは「ベートーヴェンは道ばたに落ちている音符を拾って音楽を創った」と言ったそうだが、いかにも「一つ一つの音」はたしかにその辺に転がっていそうな気がしてくる。しかし、それだけでは終わらせないところが天才の天才たる所以である。
 コバケンさんは、居合わせた聴衆にある種の宿題のように『第九』のヒントを与えてゆく。聴衆はコバケンさんの話を聞いて、自ら『第九』を追体験してゆくのである。このレクチャーは、たぶん世界でもっとも『第九』を演奏しているのではないかと思われるコバケンさんならではのものだろう。

 さて、合唱団は、プレトークが終わり、中央のピアノが片付けられたのちに入場した。180人が山台に乗るにはけっこうな時間がかかる。コバケンさんは合唱団を最初の第1楽章からステージに乗せる。最近の『第九』コンサートではこのパターンが多いだろうか。さすがにソリストだけは第2楽章が終ったところで入場した。というのは、第3楽章と第4楽章は切れ目なく続けて演奏するため、その前の第2楽章と第3楽章のあいだで若干の間合いを入れる程度にすませたいわけである。ソリストを最初から入場させたのでは、強いライトを浴び続け、乾燥したステージ上で喉の調子を維持するのは大変だろうということからなのだが、では最初から乗っている合唱団はいったいどうなるんだ、と考えるのは私だけではない。
 合唱団は、山台の上のベンチに肩を寄せ合って座り、ライトを浴びながら身じろぎもせずにじっとしていなければならない。決して楽ではない。人によっては緊張のあまり(?)睡魔に襲われることもあろう。じつは、本番前に、くれぐれもステージ上で居眠りしないようにとのお達しが出されていた。もっとも、あれだけ緊張感のある曲を聴きながら眠くなることはない──すくなくも私は、目の前で演奏されるのを見聞きするだけで興味が尽きず、いつの間にか第4楽章になってしまうというのが実感である。

 ホールの中央付近に座っていた友人のSさんは、「眠くなることもなく、飽きることもなく、最後まで集中して鑑賞できた。」とご自身のブログに書いている。さらに「小林氏の魂がこもった的確で情熱的な指揮、上級な交響楽団の演奏、ソリストと合唱団の歌唱技術も高い。」との言葉もあるいっぽう、「第3楽章では周囲の多くの観客が居眠りしていたが、第4楽章に入った瞬間に、一斉にすくっと起き、座り位置を直し、背筋を伸ばしていた光景が、妙に笑えた。」のは、さもありなんというところ。すくっと起き上がったのが合唱団だったら、金返せとなること必至である。こんな話を聞くと、つい『第九』の小噺を思い出してしまう。それは、『第九』を歌うことになったサラリーマンが会社の上司をコンサートに招待したときのことである。


部長  いやあ、なかなか素晴らしい演奏だったね。僕は音楽のことはあんまりわからないけれど、とても感動したよ。
係長  それはどうもありがとうございます。喜んで頂けてよかったです。
部長  オーケストラもソリストもとてもよかった。もちろん合唱もよかったよ。
係長  練習けっこう厳しかったんです。
部長  そうだろうね。ドイツ語もずいぶん難しそうだしね。ところで、『第九』の前に延々とやっていたあの曲は何だったのかね。
係長  ??!!


 どこかで聞いた話では、日本の『第九』はソリストが当たり前のように暗譜で歌っているが、これは世界的にみてもとても珍しいことのようである。それほど、日本では『第九』がよく演奏されるということなのであろう。コバケンさんももちろん完全暗譜で演奏する。練習にも譜面は持って来ない。楽屋には置いてあるかも知れないが、ステージには棒一本しか持って来ない。
 『第九』の合唱用楽譜──これは第4楽章だけをピアノ伴奏で書いた楽譜だが、小節番号以外にも適当に区切ってアルファベットが付けられている。アルファベットだから番号ではないが、いちおう練習番号と呼んでいる。そこで、543小節の「練習番号M」といえば、すぐに誰でもよく知っているFreude, schoener Goetterfunken Tochter aus Elysiumの大合唱であることがわかるのである。これはあくまで合唱用楽譜だけのことで、スコア(総譜)になると小節番号自体がちがってくる。「練習番号M」はスコアでは213小節にあたる。
 オケの側では、楽譜に対して合唱団とはまた違った名前を付けて呼び習わしている。「では、スペインからお願いします。」などと国の名前で呼んでいる箇所がある。ゲネプロのときコバケンさんが、合唱団所属のピアニストに向かって「イタリアの前から弾いて貰えますか。」と要求した──イタリアだったかどこだったか記憶が不確かだが、とにかくそんな風な指示を出したのに、どうも違っていたようで、「イタリアッ!」と苛立つ場面があった。そんなこと突然注文されても、ふだん合唱用楽譜しか見ていないピアニストにとっては面食らうばかりだったろうと同情したくなった。なんでゲネプロでピアノが出てくるんだと思われるかもしれないが、コバケンさんは、オケと合唱を合せるときにピアノを平行して使う。合唱の部分だけを繰り返して練習したり、直したいときにはオケは一休みさせてピアノ伴奏で代用するのである。

 コバケンさんは、もう200回以上『第九』を演奏しているというだけあって、楽譜のすみずみまですべて頭の中に入っている。「○○小節のアウフタクトからもう一度聴かせて下さい。」とスラスラと出てくる。しかし、まれに間違えることもあって、「失礼しました。○△小節でした。」と訂正する場面もあった。それにしても脅威の記憶力である。
 コバケンさんの練習は厳しいが、優しさに溢れたものでもある。基本的には褒めて育てるやり方である。指揮者の指示に速やかに反応したときには、指揮を止めずに「ありがとうございます」と小さな声でお礼を言う。そうかと思うと、「Freude, schoenerで止めて。」と言っているにも係わらずFreude, schoener Goetteとその先まで惰性でなんとなく歌ってしまう人に対しては手厳しい罵声が飛ぶ。指揮者の指示、音楽に集中していない証拠だというわけである。こんなときのコバケンさんは、とにかく容赦がない。どちらかといえば短気なほうであろう。


            


 また、コバケンさんは音楽家として当たり前のことかもしれないが、プレトークでこんなことがあった。コバケンさんが話はじめたとき、聴衆の一部の方がプログラムをカサカサとめくっていたらしい。らしいというのは、私はまだステージの袖に控えていたから、客席の状態はよくわからなかったからだ。静けさを求めるのか、あるいは集中を求めるのかどちらかわからないが、とにかくコバケンさんは「私はプログラムなんかない方がいいと思うんです。ぜひ、プログラムにはお手を触れないで下さい」とユーモア交じりに注文を付けた。まだプレトークだというのにすでに演奏モードに入っているのだろうか。音というものに相当敏感なんだなと感じさせられた。とにかく何かにつけ熱い指揮者である。








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 ステージの上から見た『第九』 

加 藤 良 一     2010年1月29日